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トピックス: ■竜王山の西麓、西北にのびる尾根の先端部を利用して築かれた前方後円墳。 ■墳丘の現在の長さは242m、後円部の径158m、高さ23m、前方部の幅102m、高さ15m。周囲に水をたたえた周濠をめぐらしている。 ■以前は景行天皇陵に比定されていたが、慶応元年の比定変更により現在は第10代崇神天皇陵とされている。 |
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| 所在地: 天理市柳本町アンド | |
| アクセス: 櫛山古墳から0.5km、徒歩10分 | |
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櫛山古墳の手前で西の方角に下ってゆくあぜ道を進めば、国道169号線にぶつかる。行燈山古墳の遙拝所は、国道沿いにある。このあたりから眺める大和国中の景色はすばらしい。行燈山古墳の墳丘が、鬱蒼と茂った木立に覆われて長々と右手に横たわっている。行燈山古墳の実際の被葬者は不明であるが、永遠の眠りの場所としてこの地を選んだ理由が分からぬでもない。 |
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渋谷向山古墳(伝景行天皇陵)から北へおよそ1kmほどの所に、竜王山から西北にのびる尾根の先端部を利用して築かれた前方後円墳がある。4世紀中頃に実在したとされる第10代崇神(すじん)天皇を埋葬した崇神天皇陵とされているが、実際の被葬者はわからない。そのため最近では陵墓の所在地から「行燈山古墳」と呼んでいる。 磯城を中心に山辺・十市の一部を含む三輪山西麓一帯は、かって「ヤマト」と呼ばれた地域である。大和国家はこの地に誕生したとされている。付近には国家創世の事実を裏付けるかのように、六基の前方後円墳が築かれている。いずれも墳丘の長さが200mを越える巨大古墳で、北から順に大和(おおやまと)古墳群中の西殿塚古墳(手白香皇女衾田(ふすまだ)陵、墳丘長234m)、柳本古墳群中の行燈山古墳(伝崇神陵、墳丘長242m)と渋谷向山古墳(伝景行陵、墳丘長302m)、桜井市の箸墓古墳(墳丘長276m)、外山(とび)茶臼山古墳(墳丘長208m)、およびメスリ山古墳(墳丘長240m)である。いずれも前方後円墳で、築造の古い順に並べれば、箸墓古墳→西殿塚古墳→外山臼山古墳→メスリ山古墳→渋谷向山古墳→行燈山古墳になると言われている。 これらの6基の古墳は、古墳時代の前期初頭から中葉すぎ(3世紀後半から4世紀末)にかけて継続的に築造されたことが分かっている。いずれも同時期の日本列島では隔絶した墳丘規模を持つ前方後円墳であり、各地の政治勢力の連合体である初期ヤマト政権の盟主の墓であることは間違いない。古墳時代の始まりの時点で、なぜ鍵穴に似た特殊な形状が、しかも唐突に出現したのか、その背景はよく分かっていない。弥生時代の墳丘墓にその祖形を求める歴史学者もいるが、両者の間には大きな違いがある。先ず規模の違いである。初期の前方後円墳である箸墓古墳は、弥生時代の後期に造られたとされる岡山県の楯築遺跡の墳丘より、体積比で100倍近く大きい。さらに、初期の前方後円墳は長大な竪穴式石室でできた埋葬設備を持ち、この中に被葬者の身長の3倍もある割竹形木棺を収納しているが、こうした埋葬方法は弥生時代の墓には見つかっていない。 行燈山古墳は、柳本古墳群の中にあって渋谷向山古墳と並び称される巨大な前方後円墳である。墳丘の現在の長さは242m、後円部の径は158mで高さは23m、前方部の幅は102mで高さは15mとされている。大きさの点では、墳丘長302mの渋谷向山古墳には及ばないが、「山の辺の道」に隣接する二大前方後円墳の一つであることにかわりはない。国道169号線沿いに位置し、周囲に水をたたえた周濠をめぐらしている。正面の玉砂利が敷かれた道を進み石の階段を上ると、前濠は綺麗な水で美しい。 |
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渋谷向山古墳のところで触れたように、この陵は江戸時代の終わりごろまでは第12代景行天皇の陵とされてきた。それを慶応元年(1865)になって治定変更、すなわち両者をすり替えたいきさつがある。変更の理由は不明である。渋谷向山古墳と比較して、行燈山古墳は一回り小さい。その上に考古学上の知見では、築造時期が渋谷向山古墳よりも少し新しいと言われている。崇神天皇は第10代、景行天皇は第12代であるから、天皇の年代と古墳の築造年代が逆転していることになる。 奈良時代の初めに『古事記』や『日本書紀』を編纂した史官たちは、第10代崇神天皇が「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれていたことを、何故か隠していない。「ハツクニシラススメラミコト」とは建国の大王の意味であり、同じ呼称が初代の神武天皇の呼び名としても使われている。どこの国の歴史書を見ても建国者が二人いることなどあり得ない。史官たちはその矛盾に気付いていたはずだが、そのことを敢えて隠さなかった。そのことは、後世に対する彼らのメッセージのような気がする。 『古事記』や『日本書紀』は、日本の国家の成り立ちをありのままに記述した史書ではない。天皇家による天皇家の史書である。その制作意図は、天皇家による日本国家支配の正当性の主張に他ならない。天皇家の血の高貴性を示すために、天照大神から連綿と続く万世一系の系図が作られ、しかも系図の古さを誇張するために架空の天皇が架上されているとされている。初代神武天皇の即位は紀元前660年であり、記紀の編纂は8世紀の初めである。およそ1400年の長きにわたって同一王朝が一つの国を統治してきた事例など、世界史にはない。エジプトや中国の例を引くまでもなく、次から次ぎと新しい王朝が興り、栄え、そして滅びていったのは世界の歴史が示す厳然とした事実である。記紀を編纂した史官たちにも、そのことは分かっていた。後世の史家たちが、記紀編纂が抱える矛盾を解明するための糸口を、彼らは残してくれたと思いたい。 崇神天皇は、磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)を宮地と定め、建国者としての多くの業績を残した。その宮地は現在の志貴御県坐(しきのみあがたにいます)神社あたりとされている。(志貴御県坐神社を参照のこと)。それに比べて、記紀に示す景行天皇紀の業績はほとんど何もないに等しい。景行天皇紀はヤマトタケル伝とタイトルを改めたいほど、息子の一代記に終始している。 |