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トピックス: ■磯城県主の祖である天津神饒速日命(あまつにぎはやひのみこと)を祀る式内社。 ■磯城県は大和国の6つの御県(皇室領:高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布)の一つ。 ■第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)の跡地を示す石碑が建っている。 |
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| 祭神: 天津饒速日命(あまつにぎはやひのみこと) | |
| 所在地: 桜井市大字三輪字金屋 | |
| アクセス: 金屋の石仏から0.2km、徒歩5分 | |
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金屋の石仏を過ぎるあたりから、山の辺の道は山道に差しかかる。すぐ左手前方100mほどのところに、杉や樫の茂った森が見えてくる。天津饒速日命(あまつにぎはやひのみこと)を祀る志貴御県坐神社の森である。道の途中が三叉路になっていて、神社方面の標識がその脇に立っているが、金屋の石仏方面から歩いてくると見失いがちだ。 |
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『古事記』や『日本書紀』によれば、神武東征の際に一行が熊野山中で難渋していたとき、京都の賀茂御祖神社の祭神とされている賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が、八咫烏(やたがらす)に化して一行を宇陀まで先導した。そのころ磯城の地を支配していたのは、兄磯城(えしき)と弟磯城(おとしき)という兄弟だった。彼らを帰順させなければ、一行は大和に入れない。そこで、八咫烏は天皇の使者として磯城に赴き、二人に降伏を勧めた。兄磯城は勧告に応じず結局戦闘で殺されてしまう。 しかし、帰順した弟磯城は磯城県主に任命されこの地域を支配したという。新撰姓氏録によれば、磯城県主は天津饒速日命(あまつにぎはやひのみこと)の末裔となっており、その一族が祖神をこの神社に祀っていることになる。ちなみに、御県とは天皇家直属の皇室領のこと。大和国には6カ所(高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布)に御県があった。 志貴御県坐神社は、地元では「しきの宮さん」の名で親しまれている。この神社を訪れた日、近所の老婦人が境内の石の腰を下ろして涼んでいた。境内の楠や樫の巨木が影を造り、梢を抜けてくる風がさわやかである。婦人の足下に杖があった。足が不自由らしい。それでも、毎日ここまで涼みに来るという。家の中よりはるかに涼しいとのこと。 |
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拝殿の前の庭の西側に、ここが第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮の跡地であることを示す石標が建っている。実際の宮跡はこの神社の境内ではなく、境内の西側にある天理教会の建物とその北隣りの三輪小学校のあたりにあったと推定されている。
戦後の日本史では、崇神天皇に先行する9代の天皇は、記紀編纂の都合上創作された架空の天皇であるとされており、大和朝廷の創始者を崇神天皇に求める研究者も少なくない。神武天皇と同じく「ハツクニシラススメラミコト」と称されていることが、その大きな理由だ。また、戦後まもなく江上波夫博士が唱えた「騎馬民族説」は有名だ。氏は崇神天皇の別名「御間城入彦」「御間城天皇」のミマキに注目し、「ミマキ天皇」とは、「ミマ」の宮殿に居住した天皇であり、日本の天皇家の始祖は任那から来たと説かれた。だが、この説は学会では主流になっていない。 崇神天皇は、その漢風諡号が示すとおり、大田田根子に大物主神を祀らたり、天照大神(あまてらすおおみかみ)と倭大国玉神(やまとのおおくにたまのかみ)の二柱を宮中から他へ遷したりして、祭祀を充実させた。さらに、北陸・東海・西海・丹波に四道将軍を派遣したり、国内の統治基盤を整えたりしていて、初代天皇としてふさわしい業績を残した。「山の辺の道」を歩いてみて、崇神天皇は何故この地に宮を造営したか少しは分かるような気がする。背後に三輪山が守り神としてそびえ、緩やかに下る前方と左右には、青垣に囲まれた大和国原が広がってまことに眺望がよい。まさに「くにのまほろば」の意味が実感できる場所なのだ。崇神天皇陵とされる行燈山(あんどんやま)古墳は、山の辺の道の沿線にある。 |