黒塚(くろつか)古墳


黒塚古墳 トピックス:

■天理市柳本町にある前方後円墳。三角縁神獣鏡が33面も出土したことで一躍脚光を浴びた。

■古墳の規模:全長約130m、後円部径約72m、後円部高さ約11m、前方部高さ約6m。

■築造時期:3世紀後半から4世紀前半と考えられている。

所在地: 天理市柳本町
アクセス:
JR柳本駅から0.3km、徒歩5分
黒塚古墳

 JR柳本駅からまっすぐ東に延びる商店街を5分ほど歩くと、住宅街の中に浮かんだ島のような古墳が左手に見えてくる。前方部を西側に向けて横たわる前方後円形の黒塚古墳である。古墳の規模は、全長約130m、後円部径約72m、後円部高さ約11m、前方部高さ約6mと報告されている。だが、濠に囲まれたこの墳丘は中世から近世にかけて城郭として使用され、江戸時代には柳本藩の陣屋の一角になっていたとのことである。度重なる整地が行われてきたはずであり、元の形を正確に推定するのは困難な作業が伴ったと思われる。

 黒塚古墳は柳本古墳群の一つだが、この古墳群には、「山の辺の道」沿いに渋谷向山古墳行燈山古墳など200mを越す盟主的古墳が存在しており、それほど世間に注目されてはいなかった。 だが、大和古墳調査委員会が1997年に実施した発掘・調査で、34面の鏡が出土したことで、マスコミに大々的に取り上げられ、一躍もっとも有名な古墳の一つになった。 1998年1月17/18日に行われた現地説明会には約2万3千人の見学者が集まったという。

邪馬台国論争を再燃させた三角縁神獣鏡33面の出土

 注目されたのは出土した鏡の多さである。現地説明会の後でも石室内から新たに三角縁神獣鏡1面が発見されているから、三角縁神獣鏡だけでも33面も出土したことになる。三角縁神獣鏡に限って言えば、それまで最も多かった椿井大塚山古墳の32枚を超えて全国1位となり、同じ石室で出土した画文帯神獣鏡の1枚を加えても全国有数(3位)の青銅鏡が出土したことになる。

 三角縁神獣鏡は、縁の断面が三角形で、背中側に神仙思想に基づく東王父や西王母などの神像と霊獣の文様を持つ銅鏡である。この鏡が邪馬台国論争のキーワードになっている。というのは、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に使者を派遣したとき銅鏡100枚を下賜されたことが「魏志倭人伝」に記されており、しかも三角縁神獣鏡の中には使者を派遣した景初3(239)年の年号を持つ鏡まである。

竪穴式石室
現地説明会当時の竪穴式石室

 邪馬台国畿内説は、三角縁神獣鏡を魏から下賜された「銅鏡百枚」にあて、大和政権によって地方の豪族に配布されたとする。一方、邪馬台国九州説は、その根拠として、三角縁神獣鏡は現時点まで中国で一面も発見されていないこと、すでに古墳時代遺跡から470面以上の三角縁神獣鏡が出土していることなどを理由に、三角縁神獣鏡は卑弥呼に下賜された鏡ではないと主張する。三角縁神獣鏡は国内産であり、邪馬台国の所在を特定する資料にはならないというのである。

 これに対して、倭に贈るために特別に鋳造したとする説や、魏への遣使は一回だけではなく卑弥呼の後継者であった台与の時代にも行われているため、「銅鏡百枚」に拘泥する必要はないなど、畿内説を主張する学者の反論がある。さらに折衷案として、中国の三国時代の呉から鏡工人がヤマトに来てこちらで制作したとする説まで出されている。邪馬台国が九州にあったのか、それとも大和にあったのかは、いまだに決着していない。

 33面の三角縁神獣鏡の中に、特に研究者の注目を集めた鏡がいくつかある。3号鏡と7号鏡と名付けられた鏡である。3号鏡には「銅出徐州、師出洛陽(徐州の銅を使って洛陽出身の工人がつくった)」の銘文があり、7号鏡の文様帯はラクダや象の絵で構成されている。このため、これらの鏡の出土は邪馬台国論争を再燃させることとなった。樋口隆康・奈良県立橿原考古学研究所長は、はやばやと「中国製であることを裏付ける資料」であるとのコメントを発表された。3号鏡は銅の産出地や鏡職人の出身地がいずれも中国であることを示し、7号鏡は当時、日本に存在しなかった動物を描いている点から「中国鏡としか言いようがない」とされている。

盗掘を阻んだ早い時期の石室崩壊

 黒塚古墳は、大和古墳調査委員会が学術調査の対象とした古墳の一つで、後円部を中心に1997年8月から発掘していた。そして、板石と人の頭ほどの河原石を「合掌型」に積み上げた特異な構造の竪穴式石室を検出した。石室は、後円部中央部分に墳丘の主軸に直行して南北方向に造られていた。古墳の規模からいえば、石室は非常に大きく幅約1.3〜0.9m、高さ約1.7m、長さ約8.3mもあった。

 石室の壁は早い時期に崩壊してしまったらしい。それが幸いした。盗掘者は前面を覆う大量の崩壊石で進入を阻まれ、わずかに石室の南小口部分しか荒らすことができなかった。そのおかげで、遺物の大半が原位置のまま残っていて、鏡をはじめ、鉄製品などの種類や数量が豊富であった。また副葬品の配置の仕方や取り扱いの違いがよくわかる状態にあり、発掘者はまるでタイムカプセルを発掘したようだとコメントを残している。

現在の発掘跡
現在の発掘跡(2002.07.12撮す)

 石室内の棺と遺体は腐食してなくなっていたが、U字状の粘土の床があり、その上に直径1m以上の丸太をくり抜いた長さ6.2mの割竹形木棺が据えられていたと思われる。被葬者は北枕で安置されていたと推測され、中央付近には魔除けのための水銀朱が大量に残っていた。

 石室内から出土した遺物は、木棺内に納められていた棺内遺物と、木棺と石室壁面との間にある隙間に納められた棺外遺物に大別できる。棺内には、画文帯神獣鏡1面と鉄製刀剣類が並行して置かれていた。棺の外には33面の三角縁神獣鏡が棺を守るような形で石室の北半に集中して置かれていた。多量の鏡を出土して話題をさらった石室は、現在埋め戻されて、わずかに墳丘上に囲ったロープによってその埋葬位置を示しているだけである。


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