箸墓(はしはか)古墳


箸墓古墳と三輪山箸墓古墳と三輪山

箸墓古墳の築造時期

 平成7年(1995)、箸墓古墳の北側に隣接する箸中大池西側の堤改修工事に先立って、橿原考古学研究所は事前調査をおこなった。そのとき古墳が造営されたころの土器が多量に出土した。土器は布留0式のものであるが、この形式の実年代は280〜300年(±10〜20年)とされている。これにより、箸墓古墳の築造時期は西暦280〜300年ごろと推定することが可能であり、被葬者の死亡時期もその頃に特定してよいことになる。

 考古学的事実から、三輪山山麓で大和王権が成立した時期は、箸墓古墳または西殿塚古墳の築造時期と見てよい。その実年代は3世紀末〜4世紀初頭とおさえられる(和田萃 「山辺の道の歴史的意義」より)。


箸墓古墳は卑弥呼の墓か?

 魏志倭人伝によれば、倭の女王卑弥呼は狗奴(くな)国との戦闘の最中に死んだ。その年次は『北史』によれば「正始中(240〜248)」とされている。正始8年(247)には、載斯烏越らを帯方郡に派遣して、戦闘の様子を報告しているから、卑弥呼が死んだのはその年か正始9年(248)と推測される。

 卑弥呼の死後、男王を立てたが国中が服さず千余人が殺される争乱となった。それで、卑弥呼の宗女で13歳の台与(とよ)が擁立され、やっと国中が収まったという。泰始元年(265)、司馬炎(武帝)が魏に代わって晋を建国すると、その翌年の泰始2年(266)11月、倭の女王が使者を晋に遣わし朝貢している。この女王は台与だったとみてよい。『梁書』諸夷伝・倭条には、卑弥呼の宗女台与を王とし、「その後また男王を立てる」とある。

 台与が女王に擁立された時期を260年前後と想定すると、大和王権の成立時期とかなり接近してくる。卑弥呼や台与が女王であった邪馬台国が奈良盆地に所在したとすると、無理なく大和王権の成立を説明することができる。おそらく卑弥呼や台与の一族からミマキイリヒコが倭国の王として擁立され、大和王権の初代(崇神天皇)となったと推測できる。

 憶測を重ねるなら、築造年代からすると、箸墓古墳の被葬者は倭の女王であった台与であり、西殿塚古墳のそれはミマキイリヒコと推測される。

 邪馬台国が北九州にあったとすると、ごく短期間に西日本全域を舞台として畿内勢力と大規模な武力衝突があり、それに勝利して畿内に東遷して三輪山の麓で大和王権が成立したと考えなければならない。その場合には、纒向遺跡で纒向1・2式段階と3式段階以降とでは、遺跡を形成した主勢力が異なってくるが、そうした変化は見受けられない。(和田萃 「山辺の道の歴史的意義」より)

注:纒向1式〜3式期:土師器の編年


RETURN indexに戻る