巣山古墳(すやまこふん) 国の特別史跡に指定されている馬見丘陵で最大の古墳

巣山古墳
巣山古墳の周濠

 メモ

【墳形】前方後円墳
【規模】全長約220m、後円部径約130m、前方部幅約112m
【築造時期】4世紀末〜5世紀初め

【所在地】奈良県広陵町三吉字巣山
【アクセス】近鉄大和高田駅からバスで「新家」か「竹取公園」下車すぐ。
【備考】昭和27年に国の特別史跡に指定


馬見古墳群の中の盟主的な存在の前方後円墳

全貌
巣山古墳全貌

赤部」交差点に戻り、県道132号線を北上すると、前方に森が見えてくる。巣山古墳である。馬見丘陵中央部に数ある古墳の中で、盟主的な存在の前方後円墳で、前方部を北に向けて横たわっている。丘陵の東麓にある小さな丘に平行していて、丘の一部を切断して築造されているとのことだ。

山古墳の前方部は、後円部ほど盛り上がっておらず、両側のくびれ部分には方形の造出しがつけられている。封土の全面にわたって礫や割石が葺かれ、円筒埴輪の列が築かれていて、4世紀末から5世紀初めの築造と推定されている。墳丘の周囲には、幅広い周濠がめぐらされている。

山古墳は、南に位置する新木山(にきやま)古墳とともに、丘陵中央部に集中する古墳群の中核をなし、馬見古墳群の中で最大級の規模を誇る。そのため、大王墓の一つと考えられている。昭和27年(1952)に国の特別史跡に指定されたが、どういうわけか宮内庁の陵墓参考地には指定されていない。したがって、大王墓を研究する格好の場所となっている。

成10年(1998)に、この古墳の測量調査が行われた。その結果、墳丘裾が5m前後広がるものと推測して、古墳の規模は全長210m、後円部径約110m、前方部幅約96mとされた。しかし、その後の発掘調査で現在の墳丘の裾より8m外側に基底石が発見された。そのため、現在では全長約220m、後円部径約130m、前方部幅約112mと訂正されている。全長220mの前方後円墳は、奈良県下では垂仁天皇陵に比定されている宝来山古墳に次いで11番目にランクされる。

の古墳の全容は地上からでは分からない。ただ樹木が生い茂るだけの巨大な丘にしか見えない。だが、航空写真で見ると、後円部と前方部の連結部に取り付けられた方形の低い造出しや、周りに巡らされた周濠と外堤がよく分かる。古墳は、南北方向の丘陵東斜面を利用して三段構成で構築されている。



盗掘されていた竪穴式石室

馬見丘陵公園からの眺め
馬見丘陵公園からの眺め

見丘陵公園の南エリアから、巣山古墳を横位置から眺めることができる。発掘調査は定期的に行われているらしく、周濠の一部が水を抜いて青色のシートがかぶせてあった。

の古墳の埋葬施設は、盗掘で破壊されていてよく分かっていない。後円部の墳頂に、墳丘の主軸にそって2基の竪穴式石室があったようである。だが、いずれも盗掘の被害を受けたため、本来の姿を留めていない。前方部の頂上にも石材が散乱していることから、小規模な石室が存在した可能性が指摘されている。

掘の被害は明治時代に受けている。そのとき持ち出されたものに、勾玉(まがだま)、管玉(くだだま)、棗玉(なつめだま)等の玉類と鍬方石(くわがたいし)、車輪石(しゅりんせき)、石釧(いしくしろ)等の石製品、滑石製の勾玉、刀子(とうす)、斧などがある。これらの品々は現在、宮内庁書陵部に収蔵されている。さらに鏡、冠と銅釧(どうくしろ)等の出土も伝えられている。その他に出土した遺物として、蓋形埴輪や籠目土器があり、現在広陵中央公民館に展示されているとのことだ。



大和・河内連合政権の傍流の王系の古墳か?

山古墳には、墳丘の両側に造出しがある。さらに前方部にも埋葬施設があったことを伺わせる石材が散乱している。このため中期古墳の印象を与えるが、鍬形石や車輪石などを出土しており、前期古墳的色彩も残している。このため、前期末の築造と見なされている。

の時期、大和では大型の前方後円墳が盛んにつくられた。たとえば、天理市柳本の行燈山古墳(崇神陵)、渋谷向山古墳(景行陵)、奈良市の佐紀盾列の五社神古墳(神功陵)、佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵)、佐紀石塚山古墳(成務陵)、宝来山古墳(垂仁陵)などがある。従来、これらの古墳の築造動向から、王墓は三輪山の麓から佐紀へ、さらに河内へ移動したとされてきた。そして、大和・河内連合政権が成立し、大山古墳(仁徳陵)・誉田御廟山古墳(応神陵)に代表される河内の超大型前方後円墳が築造されるようになったと説かれている。いわゆる三輪王朝から河内王朝への王権移動説である。

れに対して、京都教育大学の和田萃教授などは、古墳時代前期後半から末ころに、大和と河内の勢力が連合して「大和王権」が成立したとの説を唱えておられる。いわゆる「大和・河内連合王権」説である。そして、大和・河内連合政権の傍流の王系の古墳として馬見古墳群を再評価すべきであるとの考えを示しておられる。



最近の発掘関連ニュース

靫
木の埴輪「靫(ゆぎ)」
成14年(2002)3月には、これまで例のない装飾性豊かな靫(ゆぎ=矢を入れる筒)を模したとみられ形木製品や、祭祀用の木製の鋤など十数点が、周濠の底から見つかった。靫の形をした木製品は、すかしが横に6つ、縦6段に空いており、「悪霊が古墳に入らないよう武具である靫を外堤に立てて威嚇した精神性の強い辟邪(へきじゃ)の木製品だろう」と推測されている(河上邦彦・県立橿原考古学研究所副所長談)。これらの木製品は、大王級の古墳の祭祀儀礼を探る上で貴重な資料を提供している。

水鳥形埴輪
出土した水鳥形埴輪
らに、平成15年10月には前方部西側から周濠に張り出した出島状遺構が見つかった。遺構は南北16m、東西12m、高さ1.5mの大きさで、側面に石がふかれ、平たん部にも白い小石が敷き詰められていた。墳丘とは幅2mの「渡り土手」でつながり、聖域を示す「立石」が四隅に置かれていた。

の遺構から、死者の魂を運ぶとされる水鳥の埴輪や権威を象徴する蓋(きぬがさ)の埴輪など、34点以上の形象埴輪が出土した。そのため、被葬者が農耕にかかわる水の祭祀をつつがなく行った祭祀場をジオラマのように再現した場所ではないかと推測されている。