ナガレ山古墳 1600年前の姿に復元された国指定史跡

後円部
ナガレ山古墳の後円部

 メモ

【墳形】前方後円墳。後円部は三段、前方部は二段に築成
【規模】全長105m、後円部径65m、高さ8.75m、前方部幅70m、高さ6m
【築造時期】5世紀前半

【所在地】北葛城郡河合町佐味田字別所下、ナガレ
【アクセス】近鉄大和高田駅から奈良交通バス「JR法隆寺駅行」、またはJR法隆寺駅から奈良交通バス「近鉄高田駅行」で「佐味田」バス停下車(中央エリア)


かぐや姫のまち・広陵町にある馬見丘陵公園

かぐや姫
良県北葛城郡広陵町はかぐや姫の里である。昭和29年(1954)、大阪市立大学講師の塚原哲雄氏が『竹取物語』に書かれた竹取翁(讃岐造)とかぐや姫が住んでいたところは、大和国広瀬郡散吉郷(現在の広陵町)であると発表した。それがきっかけで、かぐや姫は町おこしのシンボルにされてしまった。四国の讃岐から斎部(いんべ)氏がこの付近に住みついて祀ったのが讃岐神社である、とされている。神社は今も巣山古墳の近くの竹やぶに囲まれて鎮座している。また、近くには広大な竹取公園がある。

の広陵町から隣町の河合町にかけて、奈良県が管理する「馬見丘陵公園」がある。総計画面積61.3ヘクタールにもおよぶ広大な都市公園で、数多くの点在する古墳を取り込みながら、子供から大人、老人までが気持ちよく「見て・楽しんで・学ぶ」ことのできる憩いの空間を構成している。公園は北エリア、中央エリア、南エリアに分かれていて、目指す「ナガレ山古墳」は、中央エリアにある。

見丘陵公園に立ち寄った日は、何かの催しが行われているらしく、南公園入口が開いていた。公園の正面入口まで行くのも億劫なので、南入口から中に入った。すると、看板に自転車乗り入れ禁止と書いてある。駐輪場は公園正面にしか設置されていないらしい。たまたま通りかかった係員に問い合わせると、自転車を押して歩くなら問題ないだろうと、特別の許可をもらった。自転車を押しながら散策路を左手に進むと、梢の間から葺石を敷き詰めたナガレ山古墳の墳丘が見えてきた。


馬見丘陵公園南入口
馬見丘陵公園南入口


平成9年(1997)に整備復元された1,600年前の前方後円墳

標識
墳前を横切る散策路の傍らに「史跡ナガレ山古墳」と大書された石碑が立っている。その裏面には、「昭和51年12月27日国史跡指定、平成9年3月31日整備工事竣工」と記されている。国史跡指定の直接の動機は、昭和50年から51年にかけて、土取りで墳丘の一部が破壊されたことにある。地元住民や関係者の努力によって、史跡指定を受けることができ、復元して保存されることになったと聞いている。

和63年(1988)度から発掘調査を行い、整備工事が進められた。工事では、破壊された部分の墳丘をつくり、東側には埴輪を並べ、葺石を葺いて築造当初の姿に復元した。さらに、西側は芝生を張って整備し、1,600年前と後の姿を同時に見ることができるように工夫した。その整備事業が完成するまでには約10年の歳月を要した。大変な工事だったことが分かる。

前方部
ナガレ山古墳の前方部
碑の位置からは、古墳をちょうど真横から眺めることになり、何よりもまずその巨大さに圧倒されてしまう。そして、葺石で覆った墳丘の幾何学的な端正さと、無数に並べられた埴輪の数の多さに感心してしまう。

の古墳の築造時期は5世紀前半と推定されている。ということは、今から約1600年前に現在の姿とほぼ同じ墳墓がこの場所に築かれたことになる。さらに言えば、これほどの土木建造物を造る能力をもった技術集団が存在したことになる。



夫婦を葬った可能性がある古墳

西側
芝生を張って整備された墳丘の西側

方部の墳頂には、埋葬施設が残っていた。箱形木棺を粘土で覆った粘土槨だった。棺内は赤く塗られおり、特に赤の濃い部分に被葬者の頭があったと思われる。この前方部の埋葬の形は、女性を葬ったものと推定されてる。後円部は盗掘されていて被葬者は特定できていない。しかし、前方部の被葬者とあわせて、夫婦を埋葬した可能性が指摘されている。

掘調査で出土した遺物としては、円筒埴輪、形象埴輪、石製模造品、石製玉類、鉄製品、土師器、須恵器、水銀朱などがある。 特に、円筒埴輪と形象埴輪は数が多かった。



河合町民手作りの円筒埴輪

埴輪列
墳丘裾に並べられた埴輪列
ガレ山古墳は、円筒埴輪やアサガオ型埴輪が一列に並んでいたことが特徴とされている。東側のくびれ部の前方部寄りに、2列の埴輪で区画された遺構が発見されている。これは葬送の時に墳丘を登るために造られた通路であると考えられている。また、北側埴輪列には間隔が広くなっている部分があった。この部分はくびれ部への出入り口と考えられている。

掘調査で埴輪列が確認された墳丘の裾と中段に、埴輪列が復元されている。復元した埴輪は、494本が強化プラスチック(FRP)製である。しかし、181本は河合町民が粘土を積み上げて作った、個性豊かな手作り埴輪である。