百済寺(くだらじ) 舒明天皇が建立した百済大寺の跡地?


良盆地のほぼ中央を、南から北に向かって流れる飛鳥川の堤防は、有り難いことに「自転車歩行者専用道」として整備されている。人影がほとんど見あたらない道は、周囲をゆっくりと見渡しながらペダルをこぐのに最適だ。右手に連なる三輪山や巻向山、竜王山が盆地の東の壁を作っている。反対側では、二上山や葛城山、金剛山が西の壁を作っている。両方の壁に挟まれた盆地のほぼ中間を、北に向かって自転車を走らせることになる。飛鳥川から吹き上げてくる川風が、なんとも頬に心地よい。ところどころに植えられた桜並木が涼しい木陰を作り、蝉時雨がシャワーのように降りそそぐ。

北に向かってながれる飛鳥川が、大きく西に湾曲し曽我(そが)川にすり寄るあたりで、自転車専用道から一般道の県道112号線(田原本広陵線)に入る。ほどなく曽我川を渡る。この川にに架かる橋の名前が変わっている。「橋上橋」という。橋を渡って広陵町の「百済」の集落に入ると、民家の屋根の上にひときわ高くそびえる三重塔の甍が眼にはいる。国の重要文化財に指定されている「百済寺の三重塔」である。

百済寺遠望
百済寺遠望


田園風景の中にそびえる三重塔
あ梵字池
梵字池
大織冠
本堂・大織冠

ス停「百済寺前」から脇道をすこし入ったところに、その塔は建っていた。周囲に植えられた何本かの巨木と背丈を争うようにそびえる姿は、近くの田園風景の中では一種の神々しさすら感じられた。だが、境内に入ってみると、残っているのは三重塔と、その後ろにある梵字(ぼんじ)池、そして池を挟んでたつ本堂だけである。梵字池は、弘法大師が掘られたとの伝承があるそうで、いかにも古い印象を与える。池の周りの石の上で亀が数匹、甲羅干しをしていた。

またま、近くの民家の前で車を止めて洗車している青年に聞くと、この辺りでは本堂を「大織冠(たいしょくかん)」と呼んでいるらしい。談山神社の本殿を移築したという伝承に基づく名称らしいが、三間四方で単層、入母屋造りの古びた建物である。内陣に等身大の毘沙門天像、馬頭観音像、菩薩立像を祀られている。これらの仏像を拝観できるかと聞くと、隣に住む宮司に頼めば扉を開けてくれるとのことだった。寺に宮司とは奇異に感じたが、三重塔の横に「春日若宮神社」という立派な扁額を掲げた鳥居が建っていて、寺の境内の奥に本殿が見える。つまり、百済寺と若宮神社が同居している格好になっており、両方の管理は宮司に任されているらしい。

司宅の門に取り付けられたベルを何回か押してみたが、留守のようである。仏像の拝観をあきらめて、もう一度古風な三重塔の近くに戻り、ゆっくりと眺めてみた。現在の三重塔は、鎌倉時代に建久年間、源頼朝が熊谷直実の長子小太郎直家を造寺奉行に命じ三重塔を建立させたと伝えられている。そのため、明治39年(1906)に国の重要文化財に指定された。昭和5年(1930)に一度解体修理が行われたとのことだが、その後まともな保全が行われているようにも見えない。軒裏や横板に塗った塗料がはげ落ちて、古色蒼然とした雰囲気を醸し出している。



本当に百済大寺は当地に建立されたのか?

あ三重塔
百済寺の三重塔
日本書紀』によれば、舒明天皇11年(639)の秋7月、天皇は「今年、大宮と大寺を造る」との詔を下し、百済川のほとりを宮地と定めた。そして、西国の民を徴発して大宮(百済宮)の造営にあて、東国の民を徴発して大寺(百済寺)の造営にあてたという。その年の12月には、「この月百済川の側に九重塔を建つ」とある。7月に大寺の建立を宣言し、その年の暮れ九重塔が建立されたとは思えず、この記述が塔の造立工事の開始を示すものであろう。

済大寺は、当時としては九重の塔を持つ最大規模の伽藍であった。おそらく、舒明天皇の時代には完成せず、造立工事はその後、皇后の皇極天皇に引き継がれたと思われる。皇極元年(642)9月に、百済大寺を建てるために近江と越の人夫を動員したことが『日本書紀』に見える。

になるのは、百済川の所在である。現在、百済寺の東およそ0.5kmの所に曽我川が、西およそ0.5kmの所に葛城川が流れている。したがって、舒明天皇の時代にはどちらかの川が、この付近では百済川と呼ばれていたことになる。

承では、聖徳太子が平群郡熊凝(こまごり)に建てた熊凝精舎をこの地に移し、百済大寺と名付けたと伝えられる。この寺は、我が国の仏教史上画期的な意味を持つ。それまでの各氏族が競って建てていた氏寺とは異なり、天皇家がその威信をかけて初めて建立した官立寺院だからである。それ故に、氏寺の向こうをはって九重という途方もない塔を持つ寺院を建立した。また、伽藍は火災に遭うが皇極天皇の時に再建し、天武天皇の時には、場所を高市郡に移し大官大寺と称した。

来から、現在の百済寺は、舒明天皇が建てた百済大寺ゆかりの地につくられた後身寺院と考えられてきた。しかし、この寺の近辺からは飛鳥時代の遺跡や瓦が見つからないため、百済寺=百済大寺説は疑問とされてきた。もう一つ気がかりな点がある。この地に造られたとされるのは、百済大寺だけではない。百済大宮も同時並行で造営されたことになっている。だが、この土地は、それまで天皇の宮居が築かれた磐余(いわれ)や明日香(あすか)とはずいぶん離れている。その上に、四方を田圃に囲まれた盆地の真ん中に位置している。

れまで王宮が営まれた場所は、かならず後背に山を抱いていた。万が一、敵襲にあっても、裏山へ逃げることで天皇の生命の安全を確保できるための配慮だと思われる。その好例としては斑鳩宮(いかるがのみや)がある。皇極天皇2年(643)、蘇我入鹿は軍隊を斑鳩宮派遣して、山背大兄王(やましろのおおえのみこ)とその一族を急襲させた。このとき、皇子は馬の骨を寝殿に投げ入れると、妃や子弟を連れて生駒山に隠れている。都が平野に営まれるようになるのは、律令制を根幹とする国家の制度が定まった藤原京以後のことである。

うしたことから、現在の地に大寺や大宮が営まれたとするには勇気がいる。当地が比定されたのは、百済川の存在を百済という地名に結びつけたためである。百済と呼ばれた土地が他にもあったとしたら、状況は変わってくる。数年前、桜井市にある吉備池から巨大な寺跡が発掘され、吉備池廃寺と名付けらた。その群を抜いた規模からこれが従来云われてきた幻の大寺、百済大寺ではないかとされている。

吉備池
吉備池廃寺が見つかった吉備池