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| 広瀬大社一の鳥居 |
メモ
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祭神は水の神・若宇加乃売命(わかうかのめのみこと)
河合町のこの付近は「川合」という地名が付いている。文字通り、ここは大和川の支流である高田川、葛城川、曽我川、飛鳥川、寺川、初瀬川、布留川、佐保川などの河川が合流して大和川となるところである。 こうした場所では、大雨が降るたびに洪水で付近の田畑は冠水し、各河川から流れ込んだ土砂で埋まったであろう。逆に、日照りが続くと川の水が干し上がって、田畑に水を引くこともできなかったにちがいない。古代には、こうした被害が恒常的に繰り返されたのであろう。そのため、治水の神がこの地に祀られることになった。それがこの神社の創起である。 「広瀬大社縁起」によると、崇神天皇9年(前89年)に、廣瀬の河合の里長に御神託があり、水足池(みずたるいけ)と呼ばれる荒涼とした沼地が一夜で陸地に変化して、橘が数多く生えた。このことが天皇に伝わり、この地に社殿を建てて若宇加乃売命を祀るようになったという。 河内へ流れる大和川が、洪水か地震で亀の瀬あたりで土砂崩れが発生し、水位が一挙に下がれば、社伝のように、一夜にして付近の沼地が陸に変わった可能性は十分ある。 若宇加乃売命(わかうかのめのみこと)は、水の守り神で、山谷の悪水を良水に変え、枯れることなく水田を守り、川の氾濫(はんらん)を防ぐ神として、古くから信仰を集めている。延喜式内では、当社を「廣瀬坐和加宇加売命神社」と呼んでいる。 |
本当は長髄彦を祀る神社だった?
本当の祭神は長髄彦(ながすねひこ)であるとする説もある。長髄彦は、磐余彦尊(いわれひこのみこと、後の神武天皇)が南九州から東征してきたころ、生駒山麓から奈良盆地にかけて勢力を張っていた豪族である。物部氏の祖神とされる饒速日命(にぎはやひのみこと)を主君として仕えていた。 この神社は大和盆地内を流れる河川の殆どが合流して大和川になり、河内方面へ流れていく水運の拠点に建っている。この地が物部氏の大和支配の拠点の一つであったと仮定すると、長髄彦が仕切っていた可能性はある。 本殿は1711年の造営で、春日大床造りである。斎主に大山中・曽根連(そねむらじ)韓犬が任じられたのも、この地域は曽根連が根強い力を持っていたことを窺わせる。曽根連は、饒速日命より出た姓とされ、広瀬大社の古い神家である。 相殿に祀られている櫛玉姫命は御炊屋姫(みかしきやひめ)、すなわち長髄彦の妹で饒速日命の妻となった女性である。 何故か、拝殿右側の木立の中に、古びた大砲と砲弾が置かれていた。説明らしいものは何もない。どこに照準を合わせた大砲なのか、少し訝しさを感じた。境内に大砲を置いた神社は他にも見たことがある。北葛城郡新庄町の笛吹神社である。 |
広瀬大社の奇祭「砂かけ祭」
『日本書紀』は、天武天皇4年(675)にこの地に水の神を祭り、五穀豊穣を祈願する「大忌祭」(おおいみのまつり)を始めたと伝えられており、これが現在の「砂かけ祭」へと受け継がれているとされている。 祭りの当日は、午前11時から殿上の儀が行われ、さらに午後2時から庭上の儀が行われ、五穀豊穣と雨水の多からんことを祈願する。殿上の儀では、祝詞を奏上した後、拝殿で苗代作りから田植えまでの作業を、田人や牛役、早乙女らが演じる。庭上の儀では、拝殿前の広場に青竹4本をたて、しめ縄を張って田圃にみたてて、殿上の儀と同様の行事を行う。 ただし、庭上の儀では、太鼓の合図とともに、参拝者が田植えをする田人と牛に砂をかける。逆に田人や牛は砂をかけ返す。このため「砂かけ祭」と呼ばれる。暴れ方が盛んであるほど豊作だという。 |