牧野古墳(ばくやこふん) 押坂彦人大兄皇子を埋葬したとされる成相墓(ならいのはか)?

牧野古墳の開口部
牧野古墳の開口部

 メモ

【墳形】三段に築造されている円墳
【規模】直径55m、高さ13m
【石室】全長:17.1m 玄室:長さ6.7m、幅3.3m、高さ4.5m、羨道:長さ10.7m、幅1.8m、高さ2.2m


【築造時期】6世紀後半から6世紀末
【所在地】北葛城郡広陵町大字三吉字バクヤ
【アクセス】近鉄大阪線五位堂駅から「馬見北1丁目」行きバス、「馬見北9丁目」で降りて徒歩3分
【備考】国指定史跡


牧野史跡公園の中にある国指定史跡

牧野古墳への道
牧野古墳への道
見丘陵公園を東西に切り裂き、竹取公園の前を通ってほぼ西に延びる広い道路がある。この道路をまたぐ陸橋の上に立つと、道の前方に二上山が見える。ただし、二上山の雌岳は、雄岳の陰に隠れて眺めることができず、馬の背でつながれた勇姿ではない。

のあたりは、昭和35年(1960)頃から丘陵の開発計画が具体化し、丘をけずり谷を埋めて真美ヶ丘ニュータウンや西大和ニュータウンなどの住宅が作られたところである。両側に小綺麗な住宅が続く車道の路側帯を、ゆっくりと自転車を駆るのは気持ちのよいものだ。やがて坂道を登り切った右手に樹木に覆われた一角が見えてくる。牧野(ばくや)史跡公園の緑である。

牧野史跡公園の案内
牧野史跡公園の案内

園の入り口を入ると、右手の石段の上に案内板が立っている。国指定史跡の牧野古墳を永久に保存するため、多くの種類を植樹を行ない、遊具や散策路を設けて史跡公園にしてある旨の説明がなされている。公園の広さは、10,174平米だそうだ。その案内板の隣に、古墳の開口部へ続く石畳の上り道がある。



丘陵の稜線の端部を整えて作られた円墳

牧野古墳の案内
牧野古墳の案内

陵町教育委員会が立てた案内板によると、牧野古墳は丘陵の稜線上から南に延びた支尾根の端を整えて円形に作られた円墳である。直径が55mで高さは13m。三段に築造されていて、三段目の封土の中に巨石を使った横穴式石室が築かれていた。

和58年(1983)に実施された調査によって、巨石を使用した全長17.2mの両袖式横穴石室の全貌が明らかになった。馬見丘陵地帯は粘土の山で、「豆山3里小石一つ無し」と言われているほど自然石の少ないところである。ちなみに、豆山とは馬見丘陵のことだ。それにもかかわらず、最大の石は60トン近い大きさで、奈良県では石舞台古墳の天井石についで二番目の大きさだ。

石室の内部
石室の内部

でに石室の入り口は開かれ盗掘されていたため、当初は副葬品はすでにないと思われていた。全長17.1mの大型石室の内部には奥壁に添って横向きに刳抜式の家形石棺が安置され、その手前には組合せ式の家形石棺が置かれていた。家形石棺は盗掘によってほとんど破壊されていた。

想に反して、副葬品は意外に多く残されていて、総数で2万点にもおよんだ。装身具類は金環と各種の玉(金銅製梔子(くちなし)玉・ガラス小玉・粟玉)が、馬具は本心鉄地金銅張の壺鐙(つぼあぶみ)や、縁金具のある障泥(あおり)、心葉形の鏡板と杏葉等がニ組分出土した。武器は、銀装の大刀と400本近い鉄鏃があり、羨道に集中していた容器類のなかには、木心の金銅張容器と総数58点の須恵器があった。須恵器の形式その他から6世紀後半から6世紀末にかけて築造された墓であることが分かった。



延喜式にも記された成相墓(ならいのはか)

長100mから200mの前方後円墳が数多くある馬見古墳群の中では、直径50mの円墳は決して目立つ存在ではない。だが、注目しなければならないのは、巨大な前方後円墳が築かれなくなった6世紀後半から6世紀末に造られている点である。大和地方の最後の前方後円墳は、明日香の欽明天皇陵(梅山古墳)であると言われており、その後は一辺50m程度の方墳が王陵の墓になる。したがって、円墳と方墳との差はあるが、牧野古墳は築造当時としては最大級の墓だったのである。

石室の構造
石室の構造
橿考研の河上邦彦氏によれば、牧野古墳の石室は、桜井市の赤坂天皇山古墳のものと非常に似ており、同じ設計図、つまり同じ技術集団によって築かれたと見なすことができるという。赤坂天皇山古墳は方墳であるが、被葬者として崇峻天皇が想定されている。崇峻天皇は、西暦592年11月、蘇我馬子が放った刺客・東漢駒(やまとのあたいこま)によって殺された。方墳と円墳の違いが、天皇の墓と天皇より少し身分の低い人の墓の差であると仮定した場合、牧野古墳の被葬者は、崇峻天皇が死亡した頃の皇族に範囲を特定すればよい。

喜時代(927年)に編まれた『延喜式』は、舒明天皇の父にあたる押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の墓は、大和国広瀬郡にある成相墓(ならいのはか)であると記している。広瀬郡は現在の河合町や広陵町にまたがる地域で、その大半は馬見丘陵が占めている。

くべきは、『延喜式』に記された成相墓の墓域の広さである。東西15町、南北20町と、まことに広大であり、『延喜式』に記された墓域では最大の広さをほこる。古くは、この付近が牧場としてしか利用できない不毛の丘陵であったことから、広大な墓域を設定できたのであろう。なお、相成とは道が出会うところを意味する地名と考えられている。牧野古墳が築かれた地域は、相成と呼ばれていたのだろう。

方、馬見古墳群を構成する墓ははいずれも前期から中期古墳時代のものであるが、牧野古墳だけが後期古墳時代の墓である。したがって、『延喜式』の記述は正しく、考古学会では、押坂彦人大兄皇子の相成墓である可能性はかなり高いと考えられている。



押坂彦人大兄皇子という皇子の人物像

は、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)とはどのような人物だったのか。実は、この皇子について詳しいことは余り分かっていない。とりあえず『日本書紀』から皇子の経歴を調べてみよう。

坂彦人大兄皇子は第30代・敏達天皇と皇后・広姫の第一子として生まれた。またの名を麻呂子皇子(まろこのみこ)という。母の広姫は、近江国坂田郡を本拠としていた息長真手王の娘とされている。名前に押坂という地名がついていることから、皇子の出生地は現在の桜井市忍坂(おつさか)と推測されている。ちなみに、忍坂には息子の舒明天皇(田村皇子)の押坂内陵、后の糖手姫(あらてひめ、田村皇女)の押坂墓、おばの大伴皇女(欽明皇女)の押坂内墓がある。あるいは、允恭天皇の皇后・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の名代(なしろ)して設けられた押坂部(おしさかべ、刑部とも書く)によって養育されたのかもしれない。

下では、押坂彦人大兄皇子を単に”彦人皇子”と記す。彦人皇子が大兄(おおえ)の位にあった確証はない。大化2年(646)3月の詔では、舒明天皇系の祖として皇子を「皇祖大兄」と呼んでいる。そのため、『日本書紀』編纂時になされた文飾の可能性が強い。大兄であれば、敏達天皇亡き後皇位に登ってしかるべきだが、そのような形跡はない。登極したのは、敏達天皇の異母弟の橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)、すなわち用明天皇である。

紀には、彦人皇子の行業を記述した箇所はほとんどない。ただ、敏達天皇が即位した572年の5月に、天皇は皇子と大臣の蘇我馬子に「高句麗の使者は今どこに滞在しているか」と聞いている。この皇子が彦人皇子を指すと解釈されているが、どうであろうか。さらに、『日本書紀』は用明天皇2年4月に"太子彦人皇子"と記している。これも『日本書紀』編纂時の文飾と見なされている。

だし、用明天皇亡き後、皇位継承の有力な候補であったことは間違いない。『日本書紀』は3人の候補者の名前を挙げている。一人は後の推古女帝の息子である竹田皇子(たけだのみこ)、一人は用明天皇の異母弟にあたる穴穂部皇子(あなほべのみこ)、そして彦人皇子である。三人の中では彦人皇子が最年長であり、先々帝の嫡子とあって最有力候補だったと思われる。このころの天皇継承者は有力氏族の合議によって決められていた。最高執政官だった大連の物部守屋は穴穂部皇子を推した。中臣勝海(なかとみのかつみ)も守屋に同調した。不思議なことに、もう一方の最高執政官だった大臣の蘇我馬子は、この時点で誰を推挙するのか明確にしていない。

日本書紀』によれば、皇位継承問題に絡んで蘇我馬子と物部守屋の武力対決が不可避となった頃、中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子の人形を作り、その像を傷つけて死を祈った。しかし、効果がないことが分かると、彦人皇子側に寝返るために、水派宮(みまたのみや)を訪れた。その帰り道、待ち伏せしていた皇子の舎人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)によって殺されてしまった。

西暦587年7月、蘇我馬子は諸皇子と群臣を糾合して、物部守屋を河内の渋川に攻めた。このとき、ほとんどの皇子や有力氏族は馬子側に荷担した。しかし、その中には彦人皇子の名はない。だが、皇子は迹見赤檮を参戦させている。赤檮は剛の者だったらしく、木の上に登って応戦する守屋を射殺し、守屋の子供達を殺した。その功により田一万代(一代は百畝)を下賜されたという。自分本人は参戦しなかったが、迹見赤檮を代理として送ったことで、彦人皇子は明らかに蘇我馬子側についたことになる。だが、その後に天皇に選ばれたのは、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)、すなわち崇峻天皇である。守屋討伐にそれほど積極的でなかったことが災いしたのか、彼を推挙する群臣たちはいなかったようだ。そればかりか、これ以後、彦人皇子の名はぷっつりと史書から消えてしまう。



相成墓に押坂彦人大兄皇子を埋葬した理由

在の馬見丘陵の一帯は、宅地開発が進んで往時の面影は止めていないが、古代においては耕作不可能な不毛の台地で、丘陵全体が牧場として利用されていたと思われる。随所に築かれた古墳は、人々の記憶から忘れられて樹木や牧草が繁茂する丘に変わり、放牧された馬が群れをなしていたであろう。丘陵の頂に立てば、東には高田川、葛城川、蘇我川、飛鳥川などが肩を並べて北流しているのが見える。これらの川は丘陵の北で大和川に合流して西に向かう。目を西に転じれば、二上山から葛城山、金剛山と続く山並みが連なっている。

のように、当時の馬見丘陵一帯の様子を想像すると、彦人皇子の亡骸が牧野古墳に葬られた理由がなんとなく分かるような気がする。ここは天涯の要地だったのである。丘陵の高見に館を構えれば、四方に見通しが効き、敵襲をいち早く知ることができる。丘陵の東や西を流れる河川は天然の濠の役目を果たした。特に磐余や飛鳥地方からの襲撃に対しては、格好の防御柵として機能してくれる。

我馬子と物部守屋が戦った頃、皇子の居館は水派宮(みまたのみや)と呼ばれ、大和国広瀬郡城戸(きのへ)郷(*)にあった。彼がこの地に居館を構えたのは故なしとしない。皇位継承にからむ政争の地である磐余や飛鳥から一歩距離をおくことで、身の安全を考えたものと思われる。おそらく、その時期は用明天皇の在位中であろう。病弱な天皇の在位が長くないことは、皇子に分かっていた。とすれば、次の皇位継承争いでは、その渦中に身を置くことになる。その危険性を、皇子はいち早く察知していたにちがいない。

(*) 城戸郷は現在の北葛城郡河合町大字河合の城古(じょうこ)集落に比定されている。富雄川と大和川の合流点に南方に位置し、近くに川合大塚山古墳や広瀬神社がある。水派(みまた)とは川の合流点をいう。なお、水派宮の所在について、現在の北葛城郡広陵町大塚とする説もある。広陵町百済の南西の方角にあたる。

派宮の南には、広大な馬見丘陵が広がっている。この地に居所を移して以来、皇子は丘のあちこちを何度も従者を連れて馬で散策したであろう。丘陵の尾根に立って周囲を見渡し、自分が永久の眠りにつくはずの墓域を選定して、従者にそこへの埋葬を指示したことがあるかもしれない。その場所に相成墓が築かれた可能性は高い。



押坂彦人大兄皇子の生没年を推理する

記には彦人皇子の生没年に関する記載は一切ない。彦人皇子の年齢を推定する記事は、母の広姫が敏達4年(575)11月に死亡していることから、それ以前の出生であること以外不明である。応永年間(1394〜1428)に『本朝皇胤紹運録』という神代以降の各家の系図が作られた。それには彦人皇子と妃の糠手姫(あらてひめ)との間に出生した田村皇子は、推古元年(593) の生まれとなっている。

らに、『本朝皇胤紹運録』は孫の宝皇女(皇極天皇、斉明天皇)が斉明7年(661)、68才で亡くなったとしている。逆算すれば、推古2年(594)の生まれであるから、その父の茅淳(ちぬ)王もそのころ20才前後には達していたと想定してもよい。とすれば、彦人大兄王皇子の出生は550年代遅くも560年代の初めごろとなる。仮に560年の出生とすれば、物部討伐戦があった587年には28才、皇位を継承してもおかしくない年であっったことになる。

白いことに、物部討伐戦には彦人皇子の名がない。そればかりか、その後の歴史にも一切登場しない。しかし、糠手皇女との間には田村皇子以外にも、二人の子供をもうけている。したがって、『本朝皇胤紹運録』の記載に信を置くならば、593年以降も生存していたことになる。

達紀によると、推古天皇の末子・桜井弓張皇女(さくらいのゆみはりのひめみこ)も彦人皇子に嫁ぎ、山背王と笠縫王を産んでいる。弓張皇女は推古の第7番目の子供であり、おそらく敏達天皇の晩年に産まれたものと思われる。敏達天皇は585年の薨去であるから、弓張皇女の出生は580年代の前半、従って、彦人皇子と結婚したのは、早くても590年代の末ころとなる。そして2人の子供を産んでいるのであるから、彦人皇子は推古10年(602)ころまでは確実に生存していたことになる。

方、同母姉・小墾田皇女(おわりだのひめみこ)も弓張皇女よりも先に彦人皇子と結婚している。しかし、皇子との間には子供がなかったようだ。子供を産めない体だったか、あるいは結婚後まもなく死んでしまったかのどちらかであろう。40才近い彦人皇子と年若い弓張皇女との結婚が、小墾田皇女の死後に行われたとするならば、かなり政略的な匂いがする。推古女帝としては、彦人皇子が無視しえない存在として位置づけられていた証左である。いずれにしても、皇子の死亡時期は7世紀始めころと思われ、したがって牧野古墳が彦人皇子の墓であるなら、その築造時期は7世紀初頭まで繰り下げる必要があるかもしれない。