加悦町古墳公園(かやちょうこふんこうえん) 主要な古墳を1600年前の状態に復元した歴史公園

回の一泊研修で探訪する「丹後」は、京都府の北部に位置する。かっての地方行政区分だった「丹後国(たんごのくに」に相当する地域だが、実はこの地域は8世紀の初め頃までは「丹波国(たんばのくに)」の一部だった。丹波国の北部5郡を割いて新しく丹後国が置かれたのは、和銅6年 (713)4月3日である。すなわち太安万侶が『古事記』を撰上した翌年に、丹波国の北部にあった加佐郡、与謝郡、丹波郡(後の中郡)、竹野 郡、熊野郡の五郡を割いて丹後国が新しく作られた。

加悦町へのアクセス
加悦町へのアクセス(加悦町古墳公園の栞より)
後は古墳の宝庫であり、古墳の数は約5000基近くもあるとされている。なかでも、加悦(かや)町の蛭子山(えびすやま)古墳、日本海沿岸部で最大とされる網野町の銚子山古墳、および京丹後市の古代の里資料館近くにある神明山古墳は丹後三大古墳として有名だ。日本で一番古い年号を記した銅鏡「方格規矩四神鏡」(3世紀前半)は、弥栄(やさか)町と峰山町との境界にある大田南5号墳からも出土している。

後地域独自の王権と支配体制を兼ね備えた丹後王国が竹野川を中心に存在したとする説すらある。丹後王国は4世紀中頃から末頃にはじまり、5世紀代に最盛期を迎え、6世紀中頃に大和の支配に入ったと言われている。今回の研修旅行では、丹後王国の存在を立証するような古墳を中心に遺跡巡りをするようにスケジュールされている。その手始めが、600基以上の古墳があるとされる与謝野町(旧加悦町)の古墳公園(所在:京都府与謝郡与謝野町明石(あけし)2341、0722-43-1992)だった。

加悦町古墳公園の全体図
加悦町古墳公園の全体図(丹後の古墳見学資料より)
津天橋立ICで高速道路を降りたバスは、阿蘇海に注ぐ野田川の右岸に築かれた国道176号バイパスを通って目的地に到着した。すでに正午近くだった。旅行参加者たちはバスを降りるとき手渡された弁当を持って、公園内の古墳の墳頂や斜面、麓に散ってピクニック気分で昼食を取った。その後、講師の安藤氏から説明を聞いた。

悦町古墳公園は、国・府の補助を受け、約8億円かけて国史跡の「蛭子山古墳」と「作山古墳」を1600年前の状態に復元整備した古代歴史公園で、平成4年(1992)にオープンした。園内には、4世紀後半に築造された蛭子山古墳、4世紀後半〜5世紀初めに築造された5基の中型古墳からなる作山古墳が復元されている。さらに、古墳から出土した実物の埴輪などを展示した「はにわ資料館」、竪穴式住居や高床式倉庫などの古代復元住居、約300年前の町内の民家を移築した「いろりの館」などもある。


【注】加悦町の町名は平成18年(2006)3月1日より与謝野町(よさのちょう)に変更された。そのため、古墳公園の名称も「加悦町古墳公園」から「与謝野町立古墳公園」に変更になった。

 蛭子山(えびすやま)古墳

復元された蛭子山古墳
復元された蛭子山1号墳

悦町古墳公園の中心的存在は、1号から8号墳で構成される蛭子山古墳群の盟主的存在である全長145mの1号墳だろう。古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された前方後円墳で、後円部は直径100m、高さ16m、前方部は幅62m、高さ11mを測る。三段に築成された墳丘は葺石が敷かれ、埴輪が並べてあったことが、発掘調査で確認されている。調査は昭和4年(1929)に行われ、翌年の昭和5年には国の史跡に指定された。

蛭子山1号墳の墳頂へのアクセス階段
蛭子山1号墳の墳頂へのアクセス階段
大型舟形石
後円部の頂に展示してある大型舟形石棺
蛭子山1号墳から見た2号墳
蛭子山1号墳から見た2号墳

子山古墳と通称されている古墳は、実は一列に並んだ8基の古墳から形成されている。その中の1号墳は、丹後三大古墳の一つに数えられ、三大古墳の中では一番古い。1号墳の東に築かれた2号墳は42m規模の方墳である。その他に6基の10m規模の方墳が並んでいる。

悦古墳公園付近の加悦谷には、野田川を見下ろす丘陵部に非常に多くの古墳がある。加悦谷は幅がかなり広いため、弥生時代以来農耕に適していた。そのため、ここに拠点的な集落ができ、後には大古墳を築くことができる豪族が生まれてきたとされている。蛭子山1号墳は、そうした豪族の首長墓だったと考えられている。

子山1号墳の内部主体は、後円部のほぼ中央に安置されていた花崗岩製の大型舟形石棺である。長さが3.1m、巾が1.1mもある巨大な石棺で、重さが2.5トン〜3トンはあろうと推定されている。こうした巨大な花崗岩の石棺を作成できる技術者が当地へやってきて作り上げたものと思われる。現在、墳丘上に覆屋を設けてその中にこの舟形石棺が展示されている。

藤氏の説明によると、この石棺が発見されたきっかけは、昭和2年(1927)3月に発生した丹後大震災が原因らしい。丹後大地震はこの地方に大きな被害をもたらしたが、そのとき墳丘の頂に築かれていた神社も破損してしまった。昭和4年に神社の建物を復旧する工事を始めたところ、石棺が見つかった。しかし、学術的な発掘調査という手だてを取る前に、石棺の内部が荒らされ遺物などが取り出されてしまった。

の後で京都大学の梅原末治教授らが来て発掘調査を行った。それでも、石棺の中から径が15cmほどの舶載鏡である内行花文鏡やさび付いた素環頭大刀が見つかった。棺外からは、多くの鉄刀、鉄剣、槍、斧などが発見された。墳丘に立てられていた埴輪は、丹後地方に特徴的な円筒埴輪だった。通常の円筒埴輪は上部が朝顔のように開いているが、これらの埴輪は上部がすぼまって朝顔がない形をしており、「丹後型埴輪」と呼ばれている。その他に大きなヨロイを身につけた短甲型の埴輪も見つかっている。

0年ほど前に、加悦町は史跡を復元整備するための発掘調査を行い、その上で古墳上に土をかぶせて遺構を保存し、調査成果に基づいて築造当時の古墳を正確に復元した。現在は、古墳はきれいに整備されている。

の復元整備のための調査では、上記の第一内部主体の舟形石棺とは別に、さらに2つの内部主体が見つかった。第一主体の東側に埋まっていた竪穴式石室(竪穴式石槨)の第二主体と、西側に直葬されていた木棺の第三主体である。いずれにも埴輪が四角に巡らされていた。さらに、大きな木柱を立てたと思われる柱穴も見つかっている。

 作山(つくりやま)古墳群

復元された作山(つくりやま)1号墳
復元された作山(つくりやま)1号墳

悦町古墳公園の中で、蛭子山古墳群とは小さな谷を隔てた隣の丘陵上に、きれいに整備された5基の中型古墳が並んでいる。作山(つくりやま)古墳という。これらの古墳が造られたのは、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀後半から5世紀前半)と推定されている。一番西にある5号墳が最初に造られ、その後1号墳〜4号墳が順次東に向かって築造された。

作山1号墳の墳頂に展示された箱形石棺
作山1号墳の墳頂に展示された箱形石棺
作山2号墳
頂上部と段の上に埴輪が並べられた作山2号墳
接する蛭子山古墳とは、古墳の規模に大きな違いがあるが、埴輪や石棺の材質などに共通する点が多い。そのため、作山1号墳と蛭子山1号墳は造られた時代が近いと考えられている。

しいことに1号墳から4号墳はいずれも墳形が異なる。1号墳は全長36m、高さ4mの帆立貝式古墳、2号墳は径28m、高さ3.5mの円墳、3号墳は一辺17m、高さ4mの方墳、4号墳は全長30m、高さ3mの小型前方後円墳である。

山1号墳には箱形の組合せ式石棺が埋蔵されていた。地元産の硬い花崗岩を丁寧に板状の加工したもので、棺の全長は2.66m。石棺の内部は2つの部屋に仕切られ、大きい方の主室には頭を南に向けた熟年男性が安置されていた。その頭付近から銅鏡1面、碧色の石釧(いしくしろ)2個、首飾りの玉類が550個が見つかった。一方、小さい方の副室からは、鉄剣12本、鉄斧2個、鉄小刀4本、鉄鎌1個の鉄製品が見つかっている。

記のように、これらの古墳は古墳時代前期後半から中期前半(4世紀後半から5世紀前半)に築造されたと推定され、蛭子山古墳群とそれほど時代を隔てていない。このため、蛭子山古墳群に埋葬された首長層の配下の有力者が葬られた墓であると想定されている。いずれの作山古墳も蛭子山古墳と同時期に調査され、昭和5年(1925)に国の史跡に指定された。

作山3号墳(方墳) 作山3号墳(方墳)
作山3号墳(方墳) 作山4号墳(前方後円墳)

 加悦町はにわ資料館

加悦町はにわ資料館
加悦町はにわ資料館の入口

はにわ資料館の内部
はにわ資料館の内部
悦町古墳公園の中にある「はにわ資料館」は蛭子山・作山古墳から出土した埴輪の実物資料を展示する目的で設けられた施設である。もちろん、作山5号墳から出土したメノウの首飾りと緑の石のブレスレットのように、埴輪以外の出土品も展示してある。さらに、加悦町の縄文時代から古墳時代にかけて発掘された遺物も展示されている。

味深かったのは、丹後に特有な「丹後型埴輪」である。一般的な円筒埴輪との違いを示すために、それぞれの埴輪が並べて展示してあった。その他にも、後述の日吉ケ丘墳墓の木棺跡から見つかった朱と緑色凝灰岩製管玉の状態をそのまま残すために、地面を切り取ったまま展示してあった。

images/h18j/0930-44.jpg 作山5号墳出土の管玉と石釧
一般的な円筒埴輪(右)と丹後型埴輪(左) 作山5号墳出土のメノウの首飾り
と緑の石のブレスレット



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