野中寺は近鉄南大阪線の「藤井寺」駅の南およそ1.5キロのところにある。徒歩でアクセスする場合、駅の近くにある藤井寺球場の脇を通り、まっすぐ南に進むと、長々と続く野中寺の塀にぶつかる。寺は南面していて、府道31号線(堺・羽曳野線)の「野中寺」交差点の脇にある。古代の官道であった丹比道(たじひみち、後の竹内街道)はこの寺の北辺を通っていた。
■「中の太子」の名で親しまれる太子巡礼寺
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かっての講堂跡に建つ本堂 |
野中寺は「河内三太子」の一つである。叡福寺の「上の太子」、大聖勝軍寺の「下の太子」に対し、「中の太子」と俗称されている。四天王寺を振り出しに下・中・上の太子寺に参る巡礼を、太子寺巡礼という。近世になって盛んになる巡礼であるが、寺の俗称はその巡礼のために名付けられたものであろう。寺伝は、聖徳太子の命により蘇我馬子がこの寺を造営したと伝えている。だが、考古学的知見では、境内出土の瓦から創建は7世紀後半とされている。
■渡来系氏族・船氏の氏寺?
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塔跡の土壇と礎石 |
正倉院文書によれば、この付近は渡来氏族の船氏の本拠地であり、野中寺は船氏の氏寺であった可能性が高い。船氏は王辰爾(おうじんに)を祖とする子孫である。王辰爾は百済からの今来(いまき)の渡来人で、欽明天皇の時代に船賦を計録して船長に任じられ、船史姓を賜わった。その名は、敏達天皇元年(572)にカラスの羽に書かれた高句麗からの国書を読み解いたことで有名である。
船氏は、葛井(ふじい)氏や津氏と同族で、百済の第14代・近仇首王(きんくすおう)を共通の先祖ととしており、渡来した後もお互いに近くに居住していた。葛井氏は今の藤井寺、津氏はその西1.2キロの大津神社付近を本拠地としていた。野中寺はこれらの二地点から南1.3キロに位置する。
■法隆寺式の伽藍配置だった寺院
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金堂跡 |
野中寺は何度も火災にあっている。南北朝の延元の戦い(野中寺合戦)では、伽藍は悉く灰塵に帰した。境域にはその頃の伽藍跡の土壇や礎石の列が残っていて、創建当時は東に金堂、西に塔を配置する法隆寺式の伽藍配置だったことが判明している。金堂跡や塔跡の他にも、中門跡・講堂跡・回廊跡にも多くの礎石が現在も存留しており、国の史跡指定を受けて保存されている。江戸時代になって寛文年間に慈忍恵猛律師らによって再建されたが、享保年間に火災にあった。現在の方丈や勧学院はその後に再建されたものである。
現在の南門はかっての中門跡に建っている。朱塗りの柱が鮮やかな南門から一歩境内に入ると、講堂跡に建てられた本堂が正面にあり、右手に金堂跡、左手に塔跡がある。金堂跡には小さな石塔が三基並んで建っており、その周りに礎石が埋まっている。塔跡は土壇が積まれて一段高くなっており、その上に礎石がきれいに並べてある。塔跡の先に、ヒチンジョ池西古墳の石棺がドンと据えられてある。ヒチンジョ池西古墳とは野中寺の南西約1kmの所で1946年(昭和21)に発見された古墳で、保存のため野中寺境内に移築されたという。
■国の重要文化財に指定されている弥勒菩薩半跏思惟像
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弥勒菩薩半跏思惟像 |
古代史フアンの間で野中寺の名前を有名にしているのは、白鳳期の金銅弥勒菩薩半跏思惟像が安置されているためであろう。この菩薩像の台座丸框(まるかまち)には61文字の造像銘が刻まれていて、その中に制作年を「丙寅(ひのえとら)」と明記してある。美術史家は、仏像の様式から丙寅は天智天皇5年(666)であるとし、この仏像を白鳳美術の基準作品としてきた。国の重要文化財にも指定されている。
ところが、制作年代に関する衝撃的な論文が2000年に発表された。奈良大学の東野治之氏は、この仏像が後世の贋作であり、しかも制作されたのは1918年(大正7)であるという。まさに青天の霹靂にも似た説であるが、制作年が余りに突飛なせいか、東野説に対する賛成論も反対論も余り話題にならない。
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