若草伽藍(わかくさがらん) 聖徳太子が斑鳩宮の傍に建立したとされる創建法隆寺の跡

ああああ
若草伽藍の塔跡調査(橿考研「聖徳太子の遺跡」より)

【所在】奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺
【開基】聖徳太子
【アクセス】近鉄郡山・筒井駅からバス、法隆寺下車、JR 大和路線 法隆寺駅下車 バスで約5分


■聖徳太子創建の斑鳩寺は670年に焼失
 現在の法隆寺西伽藍は、飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として、広く世に知られている。だが、この伽藍は聖徳太子が創建した斑鳩寺ではない。斑鳩寺は火災によって、一つの建物も残すことなくすべての堂宇が焼け落ちてしまった。『日本書紀』は670年(天智9)4月30日の早暁の出来事と伝える。その日は大雨が降り雷鳴が轟いたという。

 現在の法隆寺は、斑鳩寺が焼失した後に、場所を変えて建立されたものとされている。焼失した斑鳩寺は現在の法隆寺南大門の東にあり、その寺院跡は「若草伽藍」の名で呼ばれている。そこに寺院がかって存在していたことを訴えるように、塔心礎に使われた巨大が石がひとつ空き地に置かれている。


■創建時の斑鳩寺は四天王寺式伽藍配置の寺院
塔心礎
若草伽藍の塔心礎
 若草伽藍の空き地に置かれている塔心礎は、明治半ばに寺の外に流出して行方不明になるという数奇な運命を経験している。法隆寺に返還されたのは1939年(昭和14)10月のことである。返還に先立ち、この礎石の元の位置を確認するため発掘調査が行われた。その結果に基づいて、塔心礎は旧所在地に安置された。

 1939年の12月から本格的な発掘調査が実施され、若草伽藍の配置は塔と金堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式であることが分かった。塔の基壇は一辺51尺(15.5m)、金堂跡は間口72尺(21.8m)、奥行き64尺(19.4m)の大きさだった。さらに、若草伽藍は法隆寺西院伽藍の方位を示さず、磁北が20度西に振れていることも判明した。この方位の違いが、長い間繰り返されてきた法隆寺の再建/非再建論争に終止符を打つことになった。


【追記】若草伽藍の焼失を示す証拠がまた一つ発見された(04/12/02記す)
奈良県斑鳩町の教育委員会は、2004年12月1日、若草伽藍跡の西側で7世紀初めの彩色された壁画片約60点が出土したと発表した。法隆寺の門前広場整備に伴い、南大門の南東約30メートルで9月から約110平方メートルを発掘していたが、壁画片は地下約2メートルの20〜30センチの層から見つかった。一緒に出土した焼けた瓦が7世紀初めの飛鳥時代の様式だった。

若草伽藍の壁画片
若草伽藍の壁画片
これらの壁画片は、1000度以上の高熱で焼いた陶磁器と同じような状態になっており、『日本書紀』に記述される670年の火事で焼失した寺の金堂や塔の壁画とみられる。出土場所は、若草伽藍の金堂と塔の中軸線から西約100メートルで、当時は深さ約3メートルの谷だった。焼け残ったがれきをこの谷に捨てられたものと思われる。

若草伽藍では焼けた瓦の発見が少なく、火災を疑う説もあった。しかし、焼けた壁画片の出土で、『日本書紀』の記述の信憑性が確認され、670年4月30日の早暁、若草伽藍は各伽藍の内部まで焼き尽くす大火で燃え尽きたことがほぼ証明された。

これらの壁画片は、若草伽藍の金堂などの建物が壁画で装飾されていたことも同時に明らかにした。わが国最初の本格寺院である奈良県明日香村の飛鳥寺も、朝鮮半島の百済から渡来した画工が造営に携わっており、法隆寺の壁画も彼らが描いた可能性があるとの推測がなされている。


■聖徳太子が斑鳩宮の隣に建立した氏寺
 斑鳩寺(=若草伽藍)が670年に火災で焼失したことは、『日本書紀』の記述によって明らかである。しかし、何時創建されたのかを明示する史料は残っていない。創建の由来は、「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747年)の縁起文によって知ることができる。

 それによると、聖徳太子の父である用明天皇が病気になったとき、病気平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願された。587年4月のことである。しかし、その実現をみないまま発病から一週間後には崩御されてしまった。そこで、推古天皇と聖徳太子は用明天皇の誓願を継いで、607年(推古15)に寺とその本尊の薬師如来像を造られたのが、斑鳩寺であるという。

 上記が事実なら、斑鳩寺の創建は607年ということになる。だが、『法隆寺資財帳』は、聖徳太子とゆかりが深い7寺(法隆寺学問寺(=斑鳩寺)、四天王寺、中宮尼寺、橘尼寺、蜂岳寺(=広隆寺)、池後尼寺(法起寺)、葛城尼寺(葛木寺))が丁卯年(607)に推古天皇と聖徳太子により建立されたと記されている。これらの寺がすべて607年に建立されたとみることはできない。

 聖徳太子は、新しい居所となる斑鳩宮の造営を601年に開始し、4年後の605年には完成した宮に遷っている。斑鳩寺は斑鳩宮の造営と平行して、あるいは相前後して造営されたと思われる。『日本書紀』は606年(推古14)に「皇太子、亦法華経を岡本宮に講く。天皇、大きさに喜びて播磨國の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」と記している。これが史実ならば、607年ころには、すでに創建されていた可能性はある。


■法隆寺の再建が何時始まったのか不明
法隆寺
現在の法隆寺西院伽藍
 670年に全焼した斑鳩寺(=若草伽藍)に代わって、現在の西伽藍は斑鳩寺の北西の丘陵地を切り開いて造営された。しかし、何時ごろから再建工事が開始されたのかは不明である。聖徳太子信仰が高まりを見せ始めた天武・持統朝には、氏寺としてではなく官営の寺院として再建が開始されたと推測されている。まず金堂が建てられ、711年(和銅4)にはすでに五重塔と中門も完成していた。その後 鐘楼・経蔵・講堂・僧坊・食堂・西円堂等、次々と建てられ、平安時代末期には現在の西院の形が整ったとのことである。

   再建法隆寺は18万7千平米もの広大な敷地を有し、国宝38件、重文151件をはじめ、ぼう大な寺宝を有する巨刹である。境内は世界最古の木造建築で知られる金堂(国宝)、五重塔(国宝)のある西院と夢殿(国宝)を中心にした東院に分かれている。1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録された。


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