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【所在】奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺 |
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現在の法隆寺は、斑鳩寺が焼失した後に、場所を変えて建立されたものとされている。焼失した斑鳩寺は現在の法隆寺南大門の東にあり、その寺院跡は「若草伽藍」の名で呼ばれている。そこに寺院がかって存在していたことを訴えるように、塔心礎に使われた巨大が石がひとつ空き地に置かれている。
■創建時の斑鳩寺は四天王寺式伽藍配置の寺院
1939年の12月から本格的な発掘調査が実施され、若草伽藍の配置は塔と金堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式であることが分かった。塔の基壇は一辺51尺(15.5m)、金堂跡は間口72尺(21.8m)、奥行き64尺(19.4m)の大きさだった。さらに、若草伽藍は法隆寺西院伽藍の方位を示さず、磁北が20度西に振れていることも判明した。この方位の違いが、長い間繰り返されてきた法隆寺の再建/非再建論争に終止符を打つことになった。
【追記】若草伽藍の焼失を示す証拠がまた一つ発見された(04/12/02記す)
若草伽藍では焼けた瓦の発見が少なく、火災を疑う説もあった。しかし、焼けた壁画片の出土で、『日本書紀』の記述の信憑性が確認され、670年4月30日の早暁、若草伽藍は各伽藍の内部まで焼き尽くす大火で燃え尽きたことがほぼ証明された。 これらの壁画片は、若草伽藍の金堂などの建物が壁画で装飾されていたことも同時に明らかにした。わが国最初の本格寺院である奈良県明日香村の飛鳥寺も、朝鮮半島の百済から渡来した画工が造営に携わっており、法隆寺の壁画も彼らが描いた可能性があるとの推測がなされている。
■聖徳太子が斑鳩宮の隣に建立した氏寺 それによると、聖徳太子の父である用明天皇が病気になったとき、病気平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願された。587年4月のことである。しかし、その実現をみないまま発病から一週間後には崩御されてしまった。そこで、推古天皇と聖徳太子は用明天皇の誓願を継いで、607年(推古15)に寺とその本尊の薬師如来像を造られたのが、斑鳩寺であるという。 上記が事実なら、斑鳩寺の創建は607年ということになる。だが、『法隆寺資財帳』は、聖徳太子とゆかりが深い7寺(法隆寺学問寺(=斑鳩寺)、四天王寺、中宮尼寺、橘尼寺、蜂岳寺(=広隆寺)、池後尼寺(法起寺)、葛城尼寺(葛木寺))が丁卯年(607)に推古天皇と聖徳太子により建立されたと記されている。これらの寺がすべて607年に建立されたとみることはできない。 聖徳太子は、新しい居所となる斑鳩宮の造営を601年に開始し、4年後の605年には完成した宮に遷っている。斑鳩寺は斑鳩宮の造営と平行して、あるいは相前後して造営されたと思われる。『日本書紀』は606年(推古14)に「皇太子、亦法華経を岡本宮に講く。天皇、大きさに喜びて播磨國の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」と記している。これが史実ならば、607年ころには、すでに創建されていた可能性はある。
■法隆寺の再建が何時始まったのか不明
再建法隆寺は18万7千平米もの広大な敷地を有し、国宝38件、重文151件をはじめ、ぼう大な寺宝を有する巨刹である。境内は世界最古の木造建築で知られる金堂(国宝)、五重塔(国宝)のある西院と夢殿(国宝)を中心にした東院に分かれている。1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録された。
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