四天王寺(してんのうじ) 聖徳太子建立とされる7寺の一つ。実は難波吉士氏の氏寺だった?

四天王寺中心伽藍
西門からみた四天王寺中心伽藍

【所在】大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
【宗派】和宗
【山号】荒陵山
【本尊】救世観音菩薩像
【開基】聖徳太子
【アクセス】地下鉄谷町線天王寺前駅下車、南へ徒歩5分。JR・地下鉄天王寺駅、近鉄あべの橋駅下車、北へ徒歩15分



 JR天王寺駅前から北へ延びる大通りを谷町筋という。車の往来が激しい通りであるが、幾分上り勾配の歩道をゆっくり歩いて行くと、15分ほどで「四天王寺前」交差点にでる。その交差点を右折して車道に沿って少し下れば、四天王寺の南門前にでる。交差点を直角に右折すれば、石の鳥居があり、その先に西大門が見える。


■四天王寺式伽藍配置のモデルになっている寺院
 四天王寺の伽藍は、南大門・中門・塔・金堂・講堂がすべて一直線に並んで建てられている。古代の寺院にはこうした伽藍配置を採用したものが多い。特に我が国固有の伽藍配置様式という訳ではない。ルーツをたどれば朝鮮半島や中国に行き着く。だが、この様式を採用した寺院の中では四天王寺が一番古い創建伝承をもっている。そのため四天王寺式と名付けられ、寺院建築の代表的な様式の一つとされている。

 すべての堂宇が一直線に並ぶだけの単純な様式であるため、南大門を正面にしてカメラをのぞくと、構図にならない。四天王寺の中心伽藍をカメラフレームに収めるには、やはり西門を正面にした構図が収りがよい。


■『日本書紀』が語る創建の由来
 『日本書紀』は、物部守屋との戦いに際して聖徳太子が四天王に戦勝を祈願したことが、この寺の始まりであると伝えている。『日本書紀』の記述をもう少し詳しくみてみよう。西暦587年4月、第31代用明天皇が病気で薨去された。その後の皇位継承争いで、二大豪族の蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)が対立し、その年の7月ついに武力衝突に発展した。この二人はそれぞれ大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)として当時の政界を主導する人物だった。だが、百済から伝わった仏教を導入するか否かで親の代から対立していた。そこへ皇位継承問題がからんだため、事態はますます複雑化して、二人の対決は時間の問題とされた。

境内
四天王寺の境内(手前より金堂、五重塔、中門)

 老獪な政治家であった蘇我馬子は主要な皇族や氏族を自営に引き込み、物部守屋を孤立化させていった。身の危険を感じた守屋は渋川(現在の大阪府布施市)にあった邸宅に引き籠もった。自営に参加した氏族たちの軍兵や皇族の皇子たちとともに、蘇我馬子は渋川を攻めた。しかし、物部氏は軍事氏族として歴代天皇家に仕えてきた一族である。守屋に荷担したのは一部の物部支族と守屋直属の奴隷兵士たちだけだったが、戦の専門家集団である。彼らは稲城(いなぎ)を築いて応戦し、三度戦って三度とも連合軍を退けたという。

 この物部守屋討伐に14歳の聖徳太子も従軍していた。味方が不利なのをみて、白膠木(ぬりで)で四天王の像を造り、それを頭に縛り付けて「もしこの戦いに勝利したならば、護世四王のために寺を建てよう」と祈願したという。その結果、四天王の加護によって戦いに勝利し、太子は誓願を果たすために難波に四天王寺の建立したという。『日本書紀』は、物部守屋との戦いから5年後の推古元年(593)に、”この年、始めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造る”と伝えている。


■四天王寺は最初大阪城あたりに造られた?
 四天王寺の建立のためには、守屋から没収した広大な領地の一部が寺に施入され、寺院建立の財源に当てられたという。ところで、四天王寺ははじめ玉造の東の岸に造られた、とする説が昔からある。聖徳太子の伝記を記した『上宮聖徳太子伝補闕記』などで唱えられている説である。玉造は現在の大阪城あたりを指すが、古い寺地が発見されておらず、移転説の実否はわからない。

 常識的に考えれば、移転説には無理がある。現在の寺地から出土する古瓦は、596年に完成したとされる飛鳥寺より時期が後れると言われている。しかし、『日本書紀』には、推古31年(623)に新羅から献上された舎利・金塔・潅頂幡などを四天王寺に納めたという記事がある。これが事実であるならば、推古朝の末年ごろまでには、今の場所に既に建立されていたと思われる。593年に玉造の東岸に建設を始めたとすれば、完成したのはどんなに早くても600年頃となるであろう。どのような事情があったにせよ、建立して間もない伽藍を解体して別の場所を移し替えることは考えられない。

■創建四天王寺は難波吉士氏の氏寺だった?
 『日本書紀』などの四天王寺創建に関する記述とは別に、創建時の四天王寺は難波を本貫とする難波吉士氏の氏寺であったとする説がある。その説によると、645年(大化元)年12月に孝徳政府が難波に遷ってきた時点では、寺の金堂や塔、中門などは竣工していたが、講堂、南門、回廊などは未完成であったという。その根拠に、発掘調査の結果、前者と後者の造営年次に差がある。

 難波遷都に先だって、孝徳政府は僧尼の教導に当たらせるために十師を任命していた。遷都によって、これら十師を住まわせる寺が難波で必要になった。そこで目につけたのが、工事が中断されていた難波吉士氏の寺である。難波吉士氏と交渉して、その寺を孝徳政府の「官寺」に転用することを承諾させた。そして、十師を住まわせるとともに、講堂や回廊などの造営工事を再開したという。

 難波吉士氏の氏寺を「官寺」とすることに重要な役割を果たしたのが、左大臣の阿倍内麻呂だった。『日本書紀』によれば、648年(大化4)年2月8日、阿倍内麻呂は四衆(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)を四天王寺に招き、大和飛鳥の反政府勢力からの孝徳政府の擁護を四天王に仰ぐべく、四天王像を塔内に安置したと伝える。このときをもって、寺号を正式に四天王寺と定め、四天王寺の造営が完成したという。



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