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【所在】大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18 |
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JR天王寺駅前から北へ延びる大通りを谷町筋という。車の往来が激しい通りであるが、幾分上り勾配の歩道をゆっくり歩いて行くと、15分ほどで「四天王寺前」交差点にでる。その交差点を右折して車道に沿って少し下れば、四天王寺の南門前にでる。交差点を直角に右折すれば、石の鳥居があり、その先に西大門が見える。
■四天王寺式伽藍配置のモデルになっている寺院 すべての堂宇が一直線に並ぶだけの単純な様式であるため、南大門を正面にしてカメラをのぞくと、構図にならない。四天王寺の中心伽藍をカメラフレームに収めるには、やはり西門を正面にした構図が収りがよい。
■『日本書紀』が語る創建の由来
老獪な政治家であった蘇我馬子は主要な皇族や氏族を自営に引き込み、物部守屋を孤立化させていった。身の危険を感じた守屋は渋川(現在の大阪府布施市)にあった邸宅に引き籠もった。自営に参加した氏族たちの軍兵や皇族の皇子たちとともに、蘇我馬子は渋川を攻めた。しかし、物部氏は軍事氏族として歴代天皇家に仕えてきた一族である。守屋に荷担したのは一部の物部支族と守屋直属の奴隷兵士たちだけだったが、戦の専門家集団である。彼らは稲城(いなぎ)を築いて応戦し、三度戦って三度とも連合軍を退けたという。 この物部守屋討伐に14歳の聖徳太子も従軍していた。味方が不利なのをみて、白膠木(ぬりで)で四天王の像を造り、それを頭に縛り付けて「もしこの戦いに勝利したならば、護世四王のために寺を建てよう」と祈願したという。その結果、四天王の加護によって戦いに勝利し、太子は誓願を果たすために難波に四天王寺の建立したという。『日本書紀』は、物部守屋との戦いから5年後の推古元年(593)に、”この年、始めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造る”と伝えている。
■四天王寺は最初大阪城あたりに造られた? 常識的に考えれば、移転説には無理がある。現在の寺地から出土する古瓦は、596年に完成したとされる飛鳥寺より時期が後れると言われている。しかし、『日本書紀』には、推古31年(623)に新羅から献上された舎利・金塔・潅頂幡などを四天王寺に納めたという記事がある。これが事実であるならば、推古朝の末年ごろまでには、今の場所に既に建立されていたと思われる。593年に玉造の東岸に建設を始めたとすれば、完成したのはどんなに早くても600年頃となるであろう。どのような事情があったにせよ、建立して間もない伽藍を解体して別の場所を移し替えることは考えられない。
■創建四天王寺は難波吉士氏の氏寺だった? 難波遷都に先だって、孝徳政府は僧尼の教導に当たらせるために十師を任命していた。遷都によって、これら十師を住まわせる寺が難波で必要になった。そこで目につけたのが、工事が中断されていた難波吉士氏の寺である。難波吉士氏と交渉して、その寺を孝徳政府の「官寺」に転用することを承諾させた。そして、十師を住まわせるとともに、講堂や回廊などの造営工事を再開したという。 難波吉士氏の氏寺を「官寺」とすることに重要な役割を果たしたのが、左大臣の阿倍内麻呂だった。『日本書紀』によれば、648年(大化4)年2月8日、阿倍内麻呂は四衆(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)を四天王寺に招き、大和飛鳥の反政府勢力からの孝徳政府の擁護を四天王に仰ぐべく、四天王像を塔内に安置したと伝える。このときをもって、寺号を正式に四天王寺と定め、四天王寺の造営が完成したという。 |