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【所在】大阪府羽曳野市古市2-3-2 |
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近鉄南大阪線の「古市」駅で下車して駅前商店街を東へ進むと、羽曳野市商工会館前の交差点に出る。この街角あたりは、高野参りの高野街道と大和への竹内街道が交わる要地だった。横に流れる石川にも船が往来して、往時は賑わいをみせたという。その名残を示すかのように、”左大和路 右大坂”と彫り込んだ石の道標が会館の角に建っている。会館の先に市民のふれあい広場である。広場の角で左折して住宅地の路地に入り込むと、その先に西琳寺の境内がある。
■西文(かわちのふみ)氏が建立した氏寺
西文氏は百済から渡来した学者・王仁(わに)を祖とする渡来氏族である。王仁は4世紀末に百済から渡来し「論語」10巻「千文字」1巻をもたらした。その子孫は5世紀から6世紀半ばにかけて大和王権内で文筆専門の氏族として活躍し、この付近に居住していた。西琳寺は彼らの氏寺として建立された寺院であろう。王仁の子孫の阿志高(あしこ)が、559年(欽明20)親族を率いて建てたという伝承もある。 これまでの発掘調査によって、創建は飛鳥時代(7世紀前半)であり、東に塔、西に金堂を置いた法起寺式伽藍配置の寺であったと推定されている。鎌倉時代には、奈良西大寺の僧・叡尊(えいそん)が、寺を中興し、広い寺領を所有し隆盛をきわめた。東西一町(約109m)、南北二町(約218m)の寺域を持ち、金堂・講堂・五重塔・回廊・鐘堂・食堂。僧坊などを備えた堂々たる大寺院だったという。それが、天正年間の兵火や明治の廃仏で、建物の殆どを失ってしまった。現在は新しいお堂が建てられて法灯を守っているが、かつての大伽藍は見る影もない。
■創建時の壮大さを偲ばせる遺物
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