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【所在】京都府京都市左京区太秦蜂岡町32 |
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京都市の四条大宮から京福電鉄嵐山線の電車に乗り、「太秦」駅で下車すると、近くの交差点の角に広隆寺の南大門(仁王門)が周囲を威圧するように建っている。南大門を入ると石畳が続いていて、その右手には赤堂と通称される講堂が、左手には薬師堂、能楽堂、地蔵堂が甍を並べている。石畳の正面には本堂の上宮王院(じょうぐうおういん)太子殿がどっしりと構えている。石畳の道を左にとって本堂と庫裡の間を北に進むと、弥勒菩薩半跏蔵など多くの仏像を安置する新霊宝殿へと導かれる。1982年(昭和57)に新築された和風の建物で、周りにはツバキやサツキの花樹が植えられ、建物の前の池には蓮が水面に顔を出している。
■創建は推古天皇の時代まで遡る京都で最古の寺 836年(承和3)作成の『広隆寺縁起』は、別の創建伝承を伝えている。あるとき聖徳太子は秦河勝に次のような話をした。「私は昨夜、不思議な夢をみた。香ばしい香りに満ちた桂(かつら)の林の中に大きな枯れ木があり、五百羅漢がその下に集まってお経を読んでいる。枯れ木からは大光明が放ち、羅漢の読経が微妙な声で仏法を説いているように聞こえ、まことに格別な霊地に思えた」。すると、河勝は「その場所は我々が住む葛野(かどの)です」と答え、その場所へ聖徳太子を案内した。そこでは、大きな桂の枯れ木の周りを無数の蜂が飛んでいて、その蜂の群は羅漢が説法しているように見えた。そこで、仮宮殿を造って楓野(かえでの)別宮となずけ、河勝に命じて蜂岡寺を建立させた。楓野別宮は桂宮院のことであり、現在の建物は鎌倉時代の再建だが、国宝建造物として広隆寺の奥に建っている。 『広隆寺縁起』は、蜂岡寺はもともと葛野郡九条川原里・同荒見社里にあったが、それを現在の地に移したと伝える。京都市北区白梅町にある北野廃寺が蜂岡寺の旧地であるとする説がある。しかし、二つの寺から出土する創生期の瓦の様相が異なっており、7世紀前半に別の寺として成立していたとする説もある。
■何回も火災を免れてきた仏像たち
実は、広隆寺にはもう一体の弥勒菩薩半跏像が安置されている。やはり国宝であるが、幾分憂いを含んだ表情をしているため、「泣き弥勒」の名で知られている。この仏像も朝鮮半島からの渡来仏であるとする説がある。『日本書紀』によれば、623年(推古31)7月新羅の使節が来朝して、仏像1体および金塔と舎利を献上した。これらの献上品のうち仏像は蜂岡寺に安置し、その他は四天王寺に納めた、と記されているためである。
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