向原寺(こうげんじ) 推古天皇の豊浦宮を改築した豊浦寺の後身

豊浦寺の跡地に建つ向原寺
豊浦寺の跡地に建つ向原寺

【所在】奈良県高市郡明日香村豊浦
【宗派】浄土真宗
【山号】太子山
【本尊】阿弥陀如来像
【開基】蘇我稲目
【アクセス】近鉄橿原神宮前から岡寺前行き奈良交通バス、豊浦バス停下車すぐ


■我が国最初の女帝が登極した由緒ある場所
 592年(崇峻5)12月8日、敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が豊浦(とゆら)宮で即位された。我が国最初の女帝・推古天皇の登極である。女帝の誕生を記す『日本書紀』には、宮居を新たに建設して豊浦の宮としたとは書いてない。崇峻天皇暗殺という未曾有の事件の直後だったので、新しく宮を造営する時間もなく、蘇我本宗家の邸宅の一画を仮宮として、そこで即位したものと思われる。即位の日、甘樫の丘の麓では正装した群臣たちがすべて参加して、儀式がしめやかにそして盛大に行われたであろう。その頃、飛鳥川を挟んだ対岸では飛鳥寺が造営の真っ盛りであり、大勢の工人たちが立ち働いていた。しかし、この日だけはすべての作業を休んで、新しい天皇の誕生を祝ったであろう。その即位の儀式が行われた宮跡に建っているのが、現在の向原寺である。


■我が国の最初の寺はこの地に築かれた
 豊浦の宮が造られる以前、この地には蘇我稲目(いなめ)が向原の家を構えていた時期があった。『日本書紀』は、552年(欽明13)の仏教公伝の記事の中で、次のように記している。百済の聖明王が送って来た金銅の釈迦仏を前にして、欽明天皇はこの外国の神を我が国が受け入れるべきかどうか群臣に諮問した。群臣の間で意見が分かれたため、天皇は仏像を蘇我の稲目に授けて、試みに礼拝することを命じた。稲目は喜んで仏像をもらい受けると、小墾田(おわりだ)の家に安置して、仏道修行に励んだという。

 『日本書紀』は、上の話の後に「向原の家を清めて寺とした」という一文を書き添えている。この文章の意味が分かりづらい。小墾田の家とは別に向原の家があったのか、それとも二つの家は同じ場所を指すのか、判断をしかねる表現である。小墾田は飛鳥の地名で、その範囲は広く、現在の明日香村一帯を指す、と一般には解されている。しかし、推古天皇は新しい宮を造って11年後にそこに遷るが、この新しい宮の名は小墾田の宮とされている。この場合、小墾田の地名は豊浦と対比されるような狭い場所を示していると解される。

 いずれにせよ、蘇我の稲目は百済から伝来した金銅製の釈迦仏を向原の家に祀り、この家を寺とした。寺といっても、伽藍といった大きな建物ではなく、邸宅を改造した程度の草庵であっただろう。だが、その後に疫病が流行し、大勢の若者が死亡した。大連(おおむらじ)の物部尾興(おこし)や神祇を司る中臣の鎌子ら廃仏派は、自分たちの意見を聞かずに稲目に外国の神を祀らせたのが疫病の原因であるとし、この神を百済に返すことを奏上した。天皇の許可を得て、彼らは役人に仏像を難波の堀江に捨てさせた。さらに、寺に火をつけ余すところなく焼き払った。すると、雲も風もないのに、にわかに欽明天皇の宮の大殿に火災が発生したという。当時、天皇の宮は磯城島(しきしま)にあり、磯城島の金刺(かねさし)の宮と呼ばれていた。現在の桜井市の水道局あたりにあったとされる。『日本書紀』の筆致は、向原の寺を焼く火の粉で飛び火して天皇の宮まで火事になったと言いたげだ。あるいは、仏像を捨てることを許した天皇に対する仏の祟りであると、言外にほのめかしているのかもしれない。


■豊浦の宮に建立された豊浦寺(現在の向原寺の前身)
豊浦宮・豊浦寺の遺構
豊浦宮・豊浦寺の遺構
 603年(推古11)冬10月、推古天皇は豊浦の宮から小墾田の宮に遷る、と『日本書紀』は伝える。小墾田の宮は、古宮土壇のある場所であるとされてきた。橿原の市街地から豊浦の集落に入ると、左手の田圃の中に大きな木が一本立っている場所がある。そこが古宮土壇である。しかし、豊浦の宮とは余りに接近しているので、疑問視する声が以前からあった。現在は雷丘(いかずちのおか)の東にあったとする説が有力になってきている。

 豊浦の宮の跡地に建てられたのが、現在の向原寺の前身である豊浦寺である。我が国最古の尼寺で、当時は桜井道場あるいは桜井寺とも呼ばれていた。1957年以来、現在の向原寺の寺域で1970年、1980年、1985年と数度におよぶ発掘調査が行われた。向原寺の庫裏改築に伴う第三次調査(1985年)では、7世紀前半建立の豊浦寺の講堂と推定される立派な瓦葺き礎石建物跡が見つかった。すでに第一次調査(1970年)では、本堂の北50mの地点で石列が発掘されており、金堂に関係したものと推測されている。近くに民家が建て込んでいるため、塔の遺跡はまだ見つかっていないが、おそらく塔−金堂−講堂が南北に並ぶ四天王寺様式の寺院建築が、現在の豊浦集落一帯に聳えていたと思われる。


『太字山向原寺縁起』


(太子山向原寺作成の案内より転記) 

 日本書紀によりますと、わが国に初めて仏像や経論が伝えられたのは、鉄明天皇の十三年(552)で、その仏像は蘇我稲目が戴き己がオハリタの向原の家を寺としてまつったということです。このムクハラの寺こそ我が向原寺の起りで、当寺は実にわが国仏法の根元、寺院最初の霊場であります。
 当寺はまた、古来元善光寺と称していますが、これについては次のように伝えております。
 さきに百済の聖明王は仏像経論を献ずると共に仏法のかぎりなき功徳を説き、その弘通を勧めましたが、物部屋與・中臣鎌子等は強く、これに反対し、向原の寺を焼き、仏像はナニワの堀江に捨てました。その後推古天皇の八年、信濃国主に従って上都した本田善光(同国伊那郡誉田の人)が、或日のこと都見物をしようとて、難波池の辺りを通りますと「善光善光」と呼ぶ声が聞こえるので善光がフトその方を向くと、池中から光が射して来ます。よく見るとそこにはピカピカと金色にかがやく気高い霊像があります。
 善光は驚いて直ぐさまこれを拾いあげ、傍なる瀧ですすぎ清めますと、それは世にも珍しい霊妙不可思識の三尊像であります。これこそかねてから話に聞く阿弥陀如来の尊像にちがいない。吾等衆生救済のため、五劫にわたる思惟を重ね苦行を積んで下さったみ仏であると、有難涙にくれながら、この仏像を背に負い信濃に帰って吾が家に安置し一心に礼拝供養いたしました。これが信州善光寺の起源であると申します。
 この善光については、その昔釈尊在世の頃、インドに月蓋長者と呼ばれる人がいて、その願いにより、釈迦如来が阿弥陀如来と二尊の光明によって一光三尊の仏像をお作りになりました。この仏像がインドから中国にわたり百済を経て日本へ伝えられると、もったいなくも難波堀江にすてられるという悲運におあいになったと言うわけであります。善光の救いあげたのがこの仏像で、善光はかのインドの月蓋長者の生れかわりであるといいます。
 さて当寺の最初の建物は、尾與等に焼かれましたが、推古天皇はこの地に宮をうつされ、聖徳太子を摂政として政治をおまかせになりました。十七条憲法ができ、法隆寺、四天王寺等が建てられ、飛鳥時代と呼ばれるすばらしい文化のさかえを見たのは此の時であります。
 推古天皇の後、都は飛鳥の岡本にうつされ、この宮の跡にはまた寺が建てられ豊浦寺と申しました。金堂、講堂、塔婆など完備した一大伽藍が飛鳥川のほとり、甘樫丘の麓に並べたのであります。

  あすか川ゆきたむ丘の秋萩は今日ふる雨にちりかすぎなむ(万葉集)  (これは豊浦寺でよまれた歌であります。)

 都が平城、平安と遠くへうつるにつれ、飛鳥の諸大寺と共に頽勢の一途を迫り、今は全く昔の面影を失ってしまいました。しかしながら当寺の由緒は国史に厳存し、出土の古瓦によって、飛鳥時代の創建が実証せられるばかりでなく、去る昭和三十四年の発掘調査によって多くの遺構遺物が発見され、そのかみの壮大な伽藍配置など明らかになり、ありし日の盛観が偲ばれるに至ったのであります。

 宝物 :ナニワの堀江で発見の飛鳥時代仏像。


indexに戻る