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【所在】奈良県高市郡明日香村豊浦 |
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■我が国最初の女帝が登極した由緒ある場所
■我が国の最初の寺はこの地に築かれた 『日本書紀』は、上の話の後に「向原の家を清めて寺とした」という一文を書き添えている。この文章の意味が分かりづらい。小墾田の家とは別に向原の家があったのか、それとも二つの家は同じ場所を指すのか、判断をしかねる表現である。小墾田は飛鳥の地名で、その範囲は広く、現在の明日香村一帯を指す、と一般には解されている。しかし、推古天皇は新しい宮を造って11年後にそこに遷るが、この新しい宮の名は小墾田の宮とされている。この場合、小墾田の地名は豊浦と対比されるような狭い場所を示していると解される。 いずれにせよ、蘇我の稲目は百済から伝来した金銅製の釈迦仏を向原の家に祀り、この家を寺とした。寺といっても、伽藍といった大きな建物ではなく、邸宅を改造した程度の草庵であっただろう。だが、その後に疫病が流行し、大勢の若者が死亡した。大連(おおむらじ)の物部尾興(おこし)や神祇を司る中臣の鎌子ら廃仏派は、自分たちの意見を聞かずに稲目に外国の神を祀らせたのが疫病の原因であるとし、この神を百済に返すことを奏上した。天皇の許可を得て、彼らは役人に仏像を難波の堀江に捨てさせた。さらに、寺に火をつけ余すところなく焼き払った。すると、雲も風もないのに、にわかに欽明天皇の宮の大殿に火災が発生したという。当時、天皇の宮は磯城島(しきしま)にあり、磯城島の金刺(かねさし)の宮と呼ばれていた。現在の桜井市の水道局あたりにあったとされる。『日本書紀』の筆致は、向原の寺を焼く火の粉で飛び火して天皇の宮まで火事になったと言いたげだ。あるいは、仏像を捨てることを許した天皇に対する仏の祟りであると、言外にほのめかしているのかもしれない。
■豊浦の宮に建立された豊浦寺(現在の向原寺の前身)
豊浦の宮の跡地に建てられたのが、現在の向原寺の前身である豊浦寺である。我が国最古の尼寺で、当時は桜井道場あるいは桜井寺とも呼ばれていた。1957年以来、現在の向原寺の寺域で1970年、1980年、1985年と数度におよぶ発掘調査が行われた。向原寺の庫裏改築に伴う第三次調査(1985年)では、7世紀前半建立の豊浦寺の講堂と推定される立派な瓦葺き礎石建物跡が見つかった。すでに第一次調査(1970年)では、本堂の北50mの地点で石列が発掘されており、金堂に関係したものと推測されている。近くに民家が建て込んでいるため、塔の遺跡はまだ見つかっていないが、おそらく塔−金堂−講堂が南北に並ぶ四天王寺様式の寺院建築が、現在の豊浦集落一帯に聳えていたと思われる。 |
『太字山向原寺縁起』(太子山向原寺作成の案内より転記) 日本書紀によりますと、わが国に初めて仏像や経論が伝えられたのは、鉄明天皇の十三年(552)で、その仏像は蘇我稲目が戴き己がオハリタの向原の家を寺としてまつったということです。このムクハラの寺こそ我が向原寺の起りで、当寺は実にわが国仏法の根元、寺院最初の霊場であります。 あすか川ゆきたむ丘の秋萩は今日ふる雨にちりかすぎなむ(万葉集) (これは豊浦寺でよまれた歌であります。) 都が平城、平安と遠くへうつるにつれ、飛鳥の諸大寺と共に頽勢の一途を迫り、今は全く昔の面影を失ってしまいました。しかしながら当寺の由緒は国史に厳存し、出土の古瓦によって、飛鳥時代の創建が実証せられるばかりでなく、去る昭和三十四年の発掘調査によって多くの遺構遺物が発見され、そのかみの壮大な伽藍配置など明らかになり、ありし日の盛観が偲ばれるに至ったのであります。 宝物 :ナニワの堀江で発見の飛鳥時代仏像。 |