県道124号線は、近鉄橿原線の橿原神宮前駅からまっすぐ東へ延びている。その道が石川池の縁の坂道を上りきって平坦になったあたりに、奈良交通バスのバス停「和田町西」がある。葛木尼寺があったとされる和田廃寺へ行くには、バス停の角から北へ下る坂道を下りて行けばよい。坂道は小さな公園にぶつかるが、右折して田園地帯と住宅地の間の道を進むと、やがて田んぼの中に高さが2mたらずの土壇が見えてくる。「大野丘」と呼ばれる土壇で、以前は、585年(敏達14)2月に大臣(おおおみ)の蘇我の馬子が大野丘の北にたてた塔の跡とされてきた。塔の跡にはちがいないが、発掘調査の結果では7世紀後半のものと判明したため、馬子が建てた塔の跡という説は消えた。そこで付近の町名をとって、この遺跡を「和田廃寺」と呼ぶことにした。現在、和田廃寺は葛木尼寺の跡とする説が有力である。
■和田廃寺が葛木尼寺であるとされる理由
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東側から見た塔基壇跡(バックは畝傍山) |
奈良時代に原形が作られ平安時代の中期に現在の形に仕上げられた『上宮聖徳法王帝説』や、747年(天平19)に法隆寺が作成した『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』によれば、聖徳太子は在世中に7つの寺を建立したとされている。実際の聖徳太子が造営したのは斑鳩寺(=法隆寺)だけであり、後は聖徳太子にゆかりがあった人々によって建てられたものである。7つの寺とは、1.法隆寺(法隆学問寺)、2.四天王寺、3.中宮寺(中宮尼寺)、4.橘寺、5.蜂岡寺(広隆寺)、6.池後寺(池後尼寺、法起寺)および7.葛木寺(葛城尼寺)である。
これら7つの寺の中で、葛木尼寺だけが所在が確定していない。今まで橿原市の和田廃寺、香芝市の尼寺廃寺、および御所市の朝妻廃寺の三カ所が候補地とされてきた。最近になって、和田廃寺を葛木尼寺に当てる説が有力になっている。主な根拠として、次の2つが指摘されている。『続日本紀』の光仁天皇即位前紀には、「葛城寺乃前在也、豊浦寺乃西在也、於志止度、刀志止度、桜井爾」との童謡が記されていて、葛木寺が豊浦寺の西にあったことを示している。次に、延久2年に作成された『興福寺大和の国雑役免坪付帳』には、和田廃寺の寺域が11世紀後半まで葛木寺の田であったことを示している。
■「大野丘」の土壇は和田廃寺の塔基壇
「大野丘」と呼ばれる土壇があるあたりは、藤原京の右京十一・十二一坊にあたる。周辺には、トウノモトとか堂の前といった寺に関わりのある字(あざ)の名も残っている。しかし、伽藍配置などは一切分かっていない。そこで、藤原京の発掘を担当している奈良国立文化財研究所は、1974年(昭和49)と翌年の二回この土壇と周辺の発掘調査を行った。
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発掘当時の塔基壇跡 |
発掘の結果、寺の様子がある程度解明された。調査報告書によると、現在の土壇は塔基壇の西半分が残ったもので、ここには一辺が12.2mの塔基壇があったことが復元できる。基壇の版築土の中から出土した瓦などから、塔は7世紀後半に創建され、8世紀後半まで存続していたことが明らかになった。また、土壇の北側から出土した大型の鴟尾を復元したところ、その形状が法隆寺の玉虫厨子の鴟尾や山田寺のものと伝えられる鴟尾の系統を引くもので、7世紀後半に造られたものと推測できる。 こうしたことから、蘇我の馬子が585年に大野丘の北に建立した塔であるとする説は成り立たないことになる。
■葛木尼寺は葛城臣烏那羅が建立した氏寺?
『上宮聖徳法王帝説』は「葛木寺、葛木臣に賜う」と記している。『聖徳太子伝暦』には、同じ内容で蘇我葛木臣に賜ったと記す。しかし、実際は蘇我葛木臣が氏寺として建立したものであろう。葛木寺は尼寺だったようだ。聖徳太子に関連づけた創建説話を持つ寺院は、なぜか尼寺が多い。7寺のうち4つが尼寺である。
和田廃寺から出土した瓦は8世紀後半までのもので、この寺が存続したのは7世紀後半から8世紀後半の一世紀足らずであると推定されている。平城京遷都に伴って、京内に移転させられたようだ。移転先は、平城京左京五条六坊4坪だった。しかし、『続日本紀』によれば、この寺も780年(宝亀11)正月14日の火事で焼失してしまった。
上記の2つの太子伝の記載からも分かるように、葛木臣あるいは蘇我葛木臣という人物は聖徳太子と親しい間柄だったようだ。この人物の名は他の史料にも出てくる。『伊予湯岡碑文』と呼ばれている碑文には、596年(推古4)聖徳太子が今の道後温泉に遊んだことを記しているが、そのとき供として同行した人物に、恵慈と葛城臣の名がある。彼の本名は葛城臣烏那羅(おなら)で、その名はたびたび『日本書紀』にも登場する。587年、蘇我の馬子が廃仏派の物部の守屋を討ったとき、討伐軍の中に彼の名がある。また、591年(崇峻4)新羅討伐軍が組織されたときは、大将軍の一人として二万余の軍勢を率いて築紫に出兵している。おそらく、蘇我の一氏族である蘇我葛城家の族長として、また聖徳太子の股肱の臣として推古朝を生きた武人であっただろう。
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