斑鳩寺(いかるがでら) 法隆寺の別院として播磨の国に建てられた寺

斑鳩寺
斑鳩寺

【所在】兵庫県揖保郡太子町鵤
【宗派】天台宗
【本尊】釈迦如来、薬師如来、観音菩薩の三尊像
【開基】聖徳太子
【アクセス】JR山陽本線「姫路駅」から神姫バス「竜野行き」又は「山崎行き」30分「鵤」下車、北西へ徒歩3分


 神姫バスの「鵤」停留所でバスを降りると、交差点の角に「斑鳩寺」の大きい看板が立っている。その看板に導かれて、住宅地の中の生活道路を進んで行くと、やがて左手に寺の仁王門が見えてくる。普段は近所のお年寄りが時折参詣に訪れる程度で、閑静なたたずまいを見せている寺院である。


■斑鳩寺創建の歴史
 『日本書紀』によれば、606年(推古14)、聖徳太子が勝鬘経(しょうまんぎょう)と法華経を講説したとき、推古天皇はその功として皇子に播磨国揖保郡(いぼのこおり)の水田百町を与えた(『法隆寺縁起資財帳』には、このとき与えた水田の広さを219町1段82歩と記す)。皇子はその土地を「鵤荘(いかるがのしょう)と名付け、斑鳩寺(法隆寺)に施入したという。それが現在の太子町と龍野市の一部にまたがる鵤荘と呼ばれる土地である。以後、寺地は法隆寺領鵤荘として発展を遂げ、13〜14世紀ごろには360余町を領有して、法隆寺の講料・会料を支える経済的基盤となった。

 『播磨国風土記』によれば、寺領内の枚方里には河内国の枚方から漢人(あやひと)が移り住んだと伝えている。さらに、その近くの佐岡の地は、筑紫の田部を召して開墾させたとする伝承を伝えている。このことから、聖徳太子の寺領になった頃、最新の渡来技術と多大な労力を投入して付近の開墾が押し進められたと思われる。『日本霊異記』によれば、寺領成立後、聖徳太子は近習者の大伴屋栖古連(おおとものやすこのむらじ)を水田之司として派遣し、庄家の経営に当たらせたという。

 この土地を管理するための法隆寺別院として建てられたのが播磨の斑鳩寺で、平安時代には存在していた。昔は七堂伽藍、数十の坊庵が甍をならべ真に壮麗を極めたが、1542年(天文10)赤松・山名の争乱の戦禍によって惜しくも堂塔尽く焼失した。 その後、昌仙法師らによって徐々に再建され、播磨地方の太子信仰の中心として栄えてきた。


■植髪(うえがみ)太子像を祀る聖徳殿
八角円堂の聖徳殿
八角円堂の聖徳殿
  仁王門を入ると、法隆寺夢殿を模して作られたという八角円堂の聖徳殿が建っている。1665年(寛文5)に再建された建物で、太子堂とも呼ばれている。聖徳太子16才のとき、父の用明天皇の病気平癒を祈る16才の聖徳太子を写した太子植髪像を祀っている。聖徳殿の中殿と奥殿は大正時代に増築された建物で、植髪太子像は奥殿に安置されている。

 587年4月、聖徳太子の父・用明天皇が新嘗大祭の最中に病気で倒れられた。16才の皇子は飲食を絶って七日七夜の間、日夜を問わず柄香炉を捧げてその枕辺に立ち、常行三昧の行法を行い、父の病気平癒を祈ったという。植髪太子像はそのときの皇子の姿である。聖徳太子の年齢を16才とするのは、この説話が10世紀に編纂された『聖徳太子伝暦』に基づいているためで、皇子の生年を572年としている。通常は『日本書紀』の574誕生説で語られる。なお、『法隆寺旧記』のように573年誕生説を取るものもある。

 太子像が着ている衣は、昔から親王皇家から寄進されたものを着せ替えることになっている。現在の着衣は1962年(昭和37)に高松宮宣仁親王から寄進されたものである。


■秘仏の三像を祀る講堂と太子伝来の仏舎利を藏める三重塔
講堂
釈迦・薬師・如意輪観音の三像を祀る講堂
 本寺の講堂は、丈六の巨大な三体の座像を本尊として祀っている。いずれも国の重要文化財に指定されており、中央に釈迦如来、向かって右手に薬師如来、左手に如意林観音を配する。止利仏師一刀三礼の作と伝えられ、いずれの仏像も秘仏である。しかし、毎年2月22日と23日の両日だけは開帳される。

 聖徳殿に対峙するように三重塔が建っている。1565年(永禄8)、赤松左兵衛尉政秀(まさひで)の志願で再建された塔で、国の重要文化財に指定されている。輪柱には太子伝来の仏舎利が納められているという。


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