法隆寺西院伽藍(ほうりゅうじさいいんがらん) 創建法隆寺が670年に焼亡した後、傍地に建立された再建法隆寺

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法隆寺西院伽藍

【所在】奈良県生駒郡斑鳩町山内1−1
【宗派】聖徳宗
【開基】聖徳太子
【アクセス】近鉄郡山・筒井駅から奈良交通バス、「法隆寺」下車。またはJR 大和路線「法隆寺」駅から徒歩約15分


■斑鳩の里に建つ聖徳宗総本山
 飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築。1993年に日本で最初にユネスコの世界遺産に登録された寺。日本人で法隆寺の存在を知らない者はいないと思われるほど著名な寺であるが、不思議なことに何時創建されたのか誰も知らない。「法隆寺略縁起」は、金堂の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や、747年作成の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の縁起文から、推古天皇と聖徳太子が用明天皇の遺願を継いで607(推古15)年に寺と本尊の薬師如来像を造ったのがこの法隆寺である、と紹介している。

 だが、正確な言い方をすれば、この略縁起の説明は事実ではない。607年に建立されたとする寺は元の法隆寺、すなわち聖徳太子が氏寺として建立した斑鳩寺を指す。断っておくが、我が国の正史である『日本書紀』にはこの寺の創建時期について一言も触れていない。607年建立とするのは法隆寺関係の史料だけである。残念ながら、斑鳩寺は670(天智9)年4月30日の払暁、出火によって一屋も余すことなく焼け落ちてしまった。現在は、若草伽藍としてその寺院跡が南大門の東に保存されている。

 現在の法隆寺西院伽藍は、若草伽藍の跡地に建てられた寺院ではなく、その近くに新たに建立された寺院である。だが、再建に関する史料が残っていないため、再建時期を特定できない。このため、7世紀末または8世紀初めの建立といった曖昧な表現が使われている。だから、飛鳥時代の建築ではなく、美術史の年代区分で言うなら、白鳳時代以降の建築物をすべきであろう。


■太子信仰の殿堂として再建された法隆寺
 上記のように、斑鳩寺(=若草伽藍)は670(天智9)年4月30日の払暁、出火によって一屋も余すことなく焼け落ちた。伽藍を焼き尽くす火の勢いはものすごいものだったのだろう。天空高く舞い上がる熱風のせいで、「大雨が降り雷鳴が轟いた」と『日本書紀』は記している。斑鳩寺の檀越は上宮王家だった。その上宮王家は643年に蘇我入鹿らによって一族をことごとく滅ぼされている。通常の寺でも檀越がいなくなれば自然と消滅してゆくのが世の習いだ。だが、斑鳩寺は焼け跡の傍に、太子信仰の殿堂として不死鳥のように蘇った。それが再建法隆寺、すなわち現在の法隆寺西院伽藍であり、再建時の法灯を今に守り続けている。

 この再建法隆寺について、他の寺院には見られない特異なことがある。通常、寺院の金堂や講堂の中尊は一堂一仏であるのが普通である。だが、再建法隆寺の金堂は、内陣を三つに分け、中の間に釈迦三尊像を、東の間に薬師如来像を、西の間に阿弥陀如来像を、それぞれ安置する。元の斑鳩寺を再建したのであれば、寺伝に基づいて薬師如来像を中尊とすべきなのに、そうなっていない。このことは、当初の法隆寺とは性格の異なる寺として再建されたことを意味していると思われる。

 田村園澄氏は、その理由を聖徳太子信仰の殿堂として法隆寺が再建されたためで、とくに金堂は聖徳太子信仰の理念と根源をあらわしたものである、とされる。氏によれば、東の間の薬師如来像は聖徳太子の父の用明天皇にゆかりがあり、西の間の阿弥陀如来像は母の穴穂部間人皇后にゆかりがあり、中尊の釈迦如来像は、聖徳太子と等身の釈迦像であり、聖徳太子が「法王」であることを示している。すなわち、天竺の釈尊と父の浄飯王および母の摩耶夫人の釈尊一家をまねて、聖徳太子一家が金堂に内陣に奉安されており、このことによって、「日本の釈尊」すなわち聖徳太子が、現に説法しているところが、この金堂であることを表している、と言われる。聖徳太子の説法の場にふさわしく、天蓋に取り付けられた飛天は、様々な楽器で妙なる調べを奏でている。


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