法輪寺(ほうりんじ) 聖徳太子の病気平復を願って山背大兄王らが建立したとの伝承を持つ寺

法輪寺
法輪寺の門と三重塔

【所在】奈良県生駒郡斑鳩町三井
【宗派】聖徳宗
【山号】妙見山
【本尊】薬師如来坐像
【開基】山背大兄王
【アクセス】近鉄筒井駅より奈良交通バス王子方面行き、バス停「中宮寺前」で下車、徒歩約15分。または、JR法隆寺駅より徒歩35分


■さまざまな創建伝承をもつ寺
 法隆寺の北東に位置する法輪寺は、三重塔が色鮮やかで美しい寺である。創建当時の塔は1944年(昭和19)の落雷で焼失した。現在の塔は1975年(昭和50)に再建されたものである。聖徳太子ゆかりの寺なのに、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』には法輪寺の名が見えない。しかし、この寺の創建を伝える史料は二つ残っている。『上宮聖徳太子伝補闕記』は、斑鳩寺の火災後に、百済聞師・円明師・下氷君雑物の三人が合力して三井寺を造ったと伝える。『聖徳太子伝私記』の引用する「御井寺勘録寺家資材雑物等事」は、622年(推古30)に病に倒れた聖徳太子の病気平復を願って、山背大兄王・由義王らが建立したと伝える。いずれの伝承も、成立年代が考古学的知見より新しいため、この二つの創建伝承をめぐり様々な解釈がなされている。さらに、聖徳太子の妃であった膳郎女(かしわでのいらつめ)を出した膳氏の氏寺であったという説もある。


■考古学が明らかにした創建は飛鳥時代前半
 三重塔再建に先立って、1950年(昭和25)に石田茂作博士らが発掘調査を行なった。その調査で、塔の基壇の周辺から法隆寺式軒瓦が出土した。したがって三重塔は飛鳥時代後半の建立であることが判明した。しかしながら、塔基壇の版築の土の中から、それより年代が先行する飛鳥時代前半の軒瓦が出土した。これらの瓦は塔建立以前に作られた前身遺構のものと推測され、考古学的な面からは、この寺院が飛鳥時代前半には存在していたことが明らかとなっている。すなわち。飛鳥時代前半(七世紀半ば)には小規模な寺院があり、飛鳥時代後半(七世紀末)に法隆寺式伽藍配置に整備されたと考えられる。
本尊の薬師如来座像
本尊の薬師如来座像


■三井寺の由来は三つの井戸を移したことから
 法輪寺は、土地の名に拠って三井寺とも呼ばれる。三井の地名が古い。聖徳太子が飛鳥の里から三つの井戸をこの地に移したことから、この地名が起こったと伝えられている。現在も寺の北西にその内の一つが遺っている。井戸は扇形の磚を重ねたもので、直径0.9m、深さ4.25mの井戸である。発掘調査では、中門から延びる回廊が東の金堂と西の塔を囲む伽藍配置であったことが知られている。この伽藍配置を法隆寺式という。ただし、法隆寺のそれとは異なり、講堂は回廊の外に置かれていた。


■現在の規模になったのは江戸時代
 寺伝によると、1645年(正保2)の台風で寺院の伽藍はことごとく倒壊し、残ったのは三重目を吹き飛ばされた三重塔だけだったという。1737年(元文2)になって、宝裕上人が復興に着手し、まず三重塔が修理され、金堂、講堂などが新しく建てられた。しかし、上記のように、三重塔は1944年(昭和19)の落雷でまたしても焼失してしまった。再建されたのは1975年(昭和50)であるため、その鮮やかさがひときわ人目を引く。



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