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近鉄橿原線の「ファミリー公園前」駅で下車して、駅前に広がる浄化センター公園を東西に貫く県道109号線を西に向かうと、道はやがて佐保川の堤に出る。さらに下流に向かって進むと「高橋」という橋がある。高橋の下流に「板屋ケ瀬橋」がかかっているのが見え、佐保川はその橋の手前で大和川と合流する。高橋の上にたって周囲を見渡すと、この付近が古代においては水路交通の要所であったことがわかる。高橋を渡り、県道108号線を右手に進むと、堤防下の集落の中にある神社の杜が目に入る。推古神社である。その神社を目指して集落の中に入っていくと、生活道路を挟んで神社の反対側に額安寺がある。
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| 宝きょう印塔 |
額安寺の前に、鏡池(または明星池)と呼ばれる小さな池があり、その中程の池島に美しい石塔が建っている。1260年(文応元)に慈真和尚が母のために作ったものと伝えられる。記名を持つ石塔としては、我が国で三番目に古く、その美しさは抜群との評判が高い。池の中に沈んでいたものを、近年引き上げられた。
額安寺の入り口には、大和郡山市の教育委員会が建てた以下のような案内が建っている。これによって、この寺の縁起がほぼ理解できる。
額安寺(かくあんじ)
聖徳太子は、ここに学問修行の道場(熊凝の精舎)を建てられ、叔母君推古天皇は、この精舎に寺号<額安寺>を賜ったと伝えられています。
このあたりは古代水運の要所で外国使臣や文物の上陸場所であり、額安寺は、その受け入れ口に規模壮大な七堂伽藍を備えた寺として臨んでいました。しかし時と共に衰退し、鎌倉時代には僧忍性等によって一時復興されましたが、のち兵火のため講堂一宇(今の本堂)を残すのみとなってしまいました。昔日の面影は失われましたが、額安寺の根本本尊は日本最古の虚空蔵菩薩像として極めて価値高く著名であり、奈良時代の法灯は連綿と今に受け継がれています。
平成五年十月 大和郡山市
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寺伝によれば、現在の場所は621年に熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)を置いた旧地で、額安寺は熊凝精舎の後身であるという。寺号の由来については、推古天皇の額に悪性のデキモノができた時、薬師如来に祈って完治したので、そのお礼のためこの寺に薬師如来を安置し、額安寺と名付けたという伝承が伝わっている。しかし、実際は額田部氏出身の道慈律師が寺院を建立し、額田寺と名付けたとされる。
大山誠一氏によれば、道慈は虚像の聖徳太子を創造するために、『日本書紀』編纂の最終段階で太子の伝記を捏造したとされる人物である。だが、実像は違う。大和添下郡の人で、年少で出家し法隆寺で三論法を学び、702年(大宝2)入唐し、長安の西明寺で遊学すること16年におよんだ。在唐中には、唐の宮廷で高僧百人の中に選ばれたという。718年(養老2)帰国し、金光明最勝王経や虚空蔵菩薩求聞持法をもたらしたとされている。帰国した翌年に、桑門の範として神叡とともに食封五十戸を賜るなど、すでに宗教界の大きな指導的存在となっていた。729年(天平元)には律師に任ぜられている。
藤原京から平城京へ大官大寺を移築して大安寺とするのを指導したのは、道慈であった。詩をよくし、作品が「懐風藻」に収められており、又当時の僧尼のことを論じ、仏教界を批判した「愚志」を著した(現存せず)。長屋王の招待の宴席を断るなど、僧侶としての本来的な生き方を貫く高潔な精神の持ち主でもあったようで、時の政治にも加担せず晩年はすべての職を辞して、この地に隠退して入唐の際に学んだ求聞持法の主尊虚空菩薩像を安置して宗法の興隆に努めた。744年(16)に70余才で入寂したという。
額安寺は天平宝字(757〜765)の頃には、すでに建立されていた。その寺域は東西三町南北二町を占め、金堂や三重塔をはじめ倉・食堂(じきどう)・僧坊などが建ち並んでいた。しかし、平安時代になると次第に衰微し、一時は仏像の一部を興福寺に移されるほどだったという。鎌倉後期になると西大寺の叡尊・忍性・慈信などが寺の再興に尽力し、再び興隆した。社会福祉への奉仕で知られる忍性は、この地に生まれ額安寺周辺で文殊信仰を広めた僧でもある。しかし、1499年には兵乱で寺院は焼き払われた。織田信長の検地当時は、寺領も没収されたが、豊臣秀吉の時に残っている雁塔を天王寺へ移すことを条件に1町歩を与えられた。これによって江戸時代を通じて額安寺は朱印地12万石を許された。明治中頃には寺域なお一万余坪を残していたが次第に荒廃し廃寺に等しい状態にあった。1975年に、前住職が衰亡を憂いて補修建設を加えて今日に至っている。
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| 虚空蔵菩薩と文殊菩薩を安置したお堂 |
この寺を訪れたとき、本堂はこれから改築修理にかかるということで拝観できなかった。しかし、額安寺には重要文化財に指定されている虚空蔵菩薩半跏蔵と文殊騎獅像が安置してある。霊園を管理している事務室の若い女性に、拝観できるかとたずねると、「いいですよ」といとも簡単に答えて、お堂の施錠をはずして中へ案内してくれた。小さいお堂だが、その中に虚空蔵菩薩と文殊菩薩が並んでガラスケースの中に安定されている。虚空蔵菩薩はこの寺の根本本尊で、虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんほう)を修するときの本尊とされている。文殊を載せている獅子は、鎌倉時代から流行する宋風の獅子ではなく、鼻の穴が小さい犬のような獅子である。この文殊騎獅像の製作年代は平安時代の後期11世紀頃と推定されている。
写真撮影お構いなしとのことだが、残念ながら、正面からの光がガラスに反射して、被写体を正面から映すことはできなかった。
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| 虚空蔵菩薩半跏像 |
文殊騎獅像 |
747年(天平19)に作成された「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」によると、舒明天皇が建立した百済大寺の造営は、聖徳太子の遺言によるものであったとされている。舒明天皇がまだ田村皇子と呼ばれた頃、聖徳太子の病が重くなった為、推古天皇は田村皇子を見舞いに遣わした。そのとき太子は、自らが熊凝村に建てた精舎を、御世御世の天皇のために大寺となし永く三宝を伝えてほしいと、田村皇子に遺言された。太子の委託をうけた皇子は舒明天皇となった時、百済川の畔に熊凝精舎を移して百済大寺としたという。
壬申の乱に勝利した天武天皇は、673年都を飛鳥にもどして即位すると、その年の12月、百済大寺を移して高市大寺を造営するために美濃王と紀臣堅麻呂を造寺司に任命した。677年(天武5)には、この高市大寺は大官大寺と改称している。その大官大寺が平城京に移されて大安寺となったのは、上記の通りである。
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