叡福寺(えいふくじ) 「上の太子」の名で親しまれている太子巡礼寺

聖徳太子御廟
聖徳太子御廟を祀る叡福寺

【所在】大阪府南河内郡太子町太子2146
【宗派】太子宗
【山号】磯長山聖霊院
【本尊】如意輪観世音菩薩像
【開基】聖徳太子
【アクセス】近鉄長野線「喜志」から金剛バス「上ノ太子」行きに乗車、バス停「太子前」で下車。



 バス停「太子前」でバスを降りると、直ぐ北側に参詣者のための駐車場がある。駐車場脇にある石段の上に南大門が建っており、門をくぐると、そこが聖徳太子(聖徳太子)の墓を守り霊を鎮めるために建てられた叡福寺の境内である。


■「上の太子」の名で親しまれている太子巡礼寺
 叡福寺は、聖徳太子の墓とされる磯長廟(しながびょう、円墳)を守る寺として建てられた。磯長廟には、622年(推古30)2月22日薨去された聖徳太子と、太子の前日に亡くなった膳部大郎女(かしわでのおおいらつめ)および2ヶ月前に亡くなった母后・穴穂部間人(あなほべのはしひと)王后の三人が眠っている。

聖霊殿
聖霊殿
 寺伝では、聖徳太子の追福のために聖武天皇の勅願によって724年(神亀元)に創建されたとされている。創建当時は、法隆寺と同じように東院(東福院)と西院(叡福寺)からなっていて、その規模は6町四方に及ぶ大伽藍だったという。だが、聖武天皇が創立に関与したという記録は正史にはない。考古学的にも、境内でこれまで採集されている瓦から判断して、実際の創建は平安後期を遡らないと考えられている。

 平安時代の末期、平重盛(1138-79)によって堂塔の大修補が行なわれ、寺院の面目を一新したとされる。しかし、天正2年の織田信長の焼き討ちにより、伽藍は全焼してしまった。江戸時代になって、豊臣秀頼(1593-1615)が聖霊殿を再建したのを契機に、伽藍の再興が始まった。江戸時代中期までには金堂・多宝塔などが再建されて、ほぼ現在の寺の規模になったという。

 南大門をくぐると、正面に御廟が見える。南大門と御廟を結ぶ中心線の西側に、手前から多宝塔、金堂、精霊院が並ぶ。中心線の東側には客殿と念仏堂が建っている。創建以来多くの貴顕の尊崇を集め、八尾の勝軍寺が「下ノ太子」、 羽曳野市の野中寺(やちゅうじ)が「中ノ太子」と呼ばれるのに対して、「上ノ太子」として親しまれている。


■「三骨一廟」と呼ばれる「叡福寺北古墳」
聖徳太子御廟
御廟の正面
 寺伝では、聖徳太子は生前にこの地に廟を造ることに決め、620年(推古28)に墓所を造営したとされる。翌年、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女が逝去されたのでこの墓に埋葬した。更に622年(推古30)2月21日、妃の膳部大郎女が亡くなり、翌日には、皇子も薨去されたので、大后の眠る廟に二人を合葬した。こうして三人の棺がこの御廟に納められたので「三骨一廟」と呼ばれるようになった。

 御廟は叡福寺境内の北側にあり、磯長山の丘陵を利用した円墳である。考古学では「叡福寺北古墳」と呼んでいる。墳丘の高さは7.2m、直径は54.3m、内部は横穴式石室であるという。


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