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大安寺は、奈良市街の西南部のはずれに位置する。平城京が栄えた頃、このあたりは平城京左京6条・7条4坊と呼ばれた。東大寺に対比して南大寺と呼ばれたほど壮大な伽藍がこの地に甍を並べていた。だが、我が国随一の国家の大寺として偉観を誇った大安寺も、鎌倉時代以降は次第に衰微し、江戸時代には全く荒廃して、昔日の面影は失われてしまった。
現在の境内には、大正年間に建てられた本堂・嘶堂(いななきどう)・収蔵庫(讃仰殿)などが建っているだけだが、近年の発掘調査による遺構の検出や、それに伴う国の史跡指定により、旧観を復元する試みが始まっている。大安寺にアクセスする一番便利な方法はバス利用であろう。近鉄奈良駅またはJR奈良駅から大安寺方面のバスに乗り、「大安寺」バス停で下車すると、後は看板に従って進めばよい。バス停から徒歩で8分ほどで大安寺に着く。
■出世魚のように何回も寺地と寺号を変えた天皇家の寺
大安寺の縁起の縁起によれば、この寺の始まりは遠く飛鳥時代、聖徳太子が大和川の右岸の熊凝村に建てた精舎までさかのぼるという。舒明天皇がまだ田村皇子と呼ばれた頃、推古天皇の命で病床の聖徳太子を見舞ったときのことである。太子は、熊凝精舎を御世御世の天皇のために大寺となし永く三宝を伝えてほしいと、田村皇子に遺言された。
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史跡 大安寺境内碑 |
聖徳太子の委託をうけた田村皇子は舒明天皇となった時、熊凝精舎を百済川の畔に移して百済大寺としたという。639年(舒明11)のことである。なお、熊凝精舎の跡地にはその後身である額安寺が建立された。その後、壬申の乱に勝利した天武天皇は、673年都を飛鳥にもどして即位すると、その年の12月、百済大寺を香具山の南に移して高市大寺を造営するために、美濃王と紀臣堅麻呂を造寺司に任命した。677年(天武6)年には、この高市大寺は大官大寺と改称している。
しかし、天武朝はおろかその跡を継いだ持統朝になっても、大官大寺は未だ主要伽藍の一部が未完成であった。そのうち、藤原京から平城京へ都が遷ると、716年(霊亀2)から大官大寺も平城京への移建が行われ、745年(天平17)に大安寺と改称された。藤原京から平城京への移築では、大官大寺の塔や金堂が流用された可能性が高いとされている。
■大官大寺の平城京への移建を指導した道慈
大官大寺を藤原京から平城京に移建するにあたって、道慈が指導したとされている。道慈は702年(大宝2)の遣唐船で入唐した留学僧である、長安の西明寺で16年間学び、718年(養老2)の暮れに唐から帰国した。移建工事の指導を依頼されると、彼は、西明寺の伽藍を模して大安寺式とよばれる壮大な伽藍を作った。西明寺は迎賓館としての性格をもった名刹だった。大安寺の構成形式の巧みさに、工人は感嘆したという。
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十一面観音像を安置する本堂 |
完成した大安寺は、南都七大寺のひとつに数えられ、左京六条四坊から七条四坊にまたがる広大な寺域を占め、西の薬師寺に対峙する国家鎮護の寺として尊崇された。東大寺大仏開眼会の大導師を勤めたインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)や、奈良仏教の指導的役割を担った唐の高僧・道セン、あるいはベトナムの林邑楽を伝えた仏哲などが、大安寺の僧坊に止宿したと記録に残されている。
■大安寺様式と呼ばれる9体の観音像を祀る寺
大安寺の本堂は、天平時代の作とされる木造十一面観音立像を本尊として祀祀っている。ただし、この仏像は平素は秘仏とされ、10月と11月のみ公開される。讃仰殿(宝物殿)は、木造四天王立像、木造不空羂索観音立像、木造楊柳観音立像など7体の天平仏を安置する。嘶堂(いななきどう)は、一面六臂の馬頭観音像を祀っている。人々の苦悩を除き幸運のもたらす厄除け観音として信仰されている。これらの仏像は、平安彫刻の先駆として重要であり、特に大安寺様式と言われ、いずれも重要文化財の指定を受けている。
大安寺は癌封じ笹酒祭りの寺として知られている。1月23日の光仁会(こうにんえ)では、早朝より境内で笹酒が温められ願封じの祈祷が行われる。さらに6月23日は、中国の故事にいう竹酔い日で、光仁会とともに大安寺の二大行事になっている癌封じ夏祭りが行われる。
■巨大な西塔の基壇を発掘
現在の境内の南には、東塔と西塔の塔跡が残っており、昔日の威容を偲ぶことができる。史跡大安寺旧境内保存整備事業の一環として西塔跡を発掘していた奈良市教育委員会は、2003年2月20日、21m四方の基壇と、基壇に登る階段、礎石の抜き取り穴などを発掘したと発表した。大安寺の南大門の前方には東と西の塔が築かれていた。東の塔に関しては、平安時代末の文献から7重の塔であったことが判明している。また、西の塔は平安時代に二度の火災で燃えたことが知られている。すなわち、天暦3年(949)に西塔が落雷で消失したことや、寛仁元年(1017)には大安寺の伽藍(がらん)が東塔を除いて焼亡したことが文献に記されている。
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| 大安寺西塔跡 |
発掘現場 |
両塔の創建時期や規模は不明だった。しかし、今回の発掘調査で出土した瓦などから、西塔の創建時期を奈良時代末から平安時代初めごろに限定できるという。また、発掘された基壇の大きさから、60mを越える巨大な塔であったと推測される。平安時代に燃えた東大寺の七重塔は、実に100mの高さだったとされているが、それに次ぐ規模の塔がここにそびえていたことになる。現存する塔で最も高いのは、東寺の五重塔の55m、次いで興福寺の五重塔の50.8m。したがって、大安寺の塔はこれらをはるかに越える高さを誇っていた。
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| 出土した風鐸 |
なお、新聞発表では、階段の近くから、塔の軒先に付ける風鐸(ふうたく)が完全な形で出土したほか、水煙の一部と見られる銅製品(約30センチ)が出土した。風鐸には、塗金がわずかに残っているという。
【追記】平成15年10月29日、奈良市教育委員会は、その後の発掘調査で塔の頂部を装飾する水煙の一部(全長約50センチ、最大幅34センチ)と風鐸が新たに見つかったと発表した。水煙は前回見つかった銅製品と接合部が一致した。塔の相輪の上部を装飾する水煙は、火炎や天女などをデザインしたものが多い中で、西塔跡から出土した水煙はシンプルな意匠ながら重厚で力強いイメージを与えるという。風鐸は、前回出土した物と大きさはほぼ同じだが、形状が異なるものだった。(03/10/30)
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