飛鳥寺(あすかでら) 蘇我馬子が真神原に建立した我が国最初の本格寺院

飛鳥寺
飛鳥寺の中金堂の跡地にたつ安居院

【所在】奈良県高市郡明日香村飛鳥682
【宗派】真言宗
【山号】鳥形山
【本尊】釈迦如来坐像
【開基】蘇我馬子
【アクセス】近鉄橿原神宮前駅より「岡寺前」行き奈良交通バス、「飛鳥大仏前」下車、すぐ


 甘樫丘の豊浦展望台に立って東の方角を見やると、眼下に飛鳥の集落が広がる。その集落のはずれに見える小さなお寺が、安居院(あごいん)である。今を去ることおよそ1400年の昔、この地に我が国最初の本格寺院が建立された。当時の大豪族・蘇我氏が一族の権勢を誇示するように、また仏法興隆を高らかに宣言するように「元興寺」と名付けられた七堂伽藍である。「元興寺」は飛鳥を代表する寺院として、当時の人々は親しく「飛鳥寺」と呼んだ。


■一塔三金堂式と呼ばれる特異な伽藍配置を採用した古代寺院
 飛鳥寺は、朝鮮半島、なかんずく百済からの派遣技術者の指導によって、596年11月に完成したと『日本書紀』は伝えている。中央の塔の周りに中金堂、東金堂、西金堂を配した一塔三金堂式と呼ばれる特異な配置の伽藍だった。中金堂の本尊の制作は遅れて605年に開始された。完成は606年(または609年)。

 飛鳥の空高くそびえた五重塔(九重塔だったとする説もある)は、その存在を当時の人々に強烈に印象づけたであろう。だが、建立から600年後に落雷を受けて塔が焼失してしまった。鎌倉時代の建久7年(1196)の出来事である。蘇我氏の権勢の象徴だった寺院も、中世にはすべての建物が失われ、法灯も絶えた。本尊の大仏は雨ざらしのまま放置されていたという。江戸時代の初期に形ばかりの草堂を建てて大仏を雨露から守り、後には尼僧が大仏のためにお堂を建ててお守りした。これが現在の真言宗安居院の始まりである。現在の安居院(あごいん)は、中金堂のあった位置に建っている。


■発掘調査で初めて明らかになった特異な伽藍様式
 飛鳥寺の造営の経過は、『日本書紀』や『元興寺縁起』の引用する「露盤銘」および「丈六光銘」によって、かなり詳細に判明している。しかし、塔の周りを三つの金堂を配した一塔三金堂式の伽藍配置だったとは、1950年代半ばから始められた発掘調査まで誰も予測できなかった。仏教伝来当時、我が国は朝鮮半島の百済から仏教を学んだ。当時の仏教は宗教であると同時に、先進文化であり総合芸術だった。僧侶は深い経典の知識を有し、深い東洋医学の知識も兼ね備えていた。仏教寺院は、建築、瓦製造、露盤作成、絵画、仏像鋳造、舞踊、音楽などの技術の総合である。当時の百済は仏教先進国として、我が国が必要とするものをすべて与えた。

塔心礎跡
塔心礎跡
 百済仏教の影響下にあった当時の事情を考えれば、我が国で建立された最初の本格寺院は四天王式の伽藍配置だろうと、誰もが推測していた。百済では中門と塔と金堂が一直線に並ぶ様式が一般的であった。ところが、発掘結果はこの常識を覆した。白昼のもとにさらけ出された遺構は、塔の周りに金堂を三つも配していた。この一塔三金堂の伽藍配置は、朝鮮半島の平壌で発掘された清岩里廃寺や定陵寺などにだけ見られる独特の様式だった。平壌は、その当時高句麗が首都をおいた所である。

 一塔三金堂様式の採用は、この寺院建設の企画段階から高句麗からの強力な支援があったことを如実に物語っている。高句麗は、かって朝鮮半島で干戈を交えた間柄であり、長い間没交渉の時代が続いた。しかし570年になって、高句麗の平原王は突然のように使者を我が国に派遣してきて国交の樹立を求めた。それ以来両国の交流は続いている。だが、百済と比べるとその密度の濃さが違う。


■飛鳥寺建立の裏側を読む
飛鳥寺の概括的な紹介は別のところで行っている(飛鳥寺を参照のこと)。ここではこの寺院の建立の裏側にあった事情をすこし探ってみたい。

飛鳥仏
飛鳥大仏
 562年、朝鮮半島南部では、我が国が「任那(みまな)」と呼んできた加耶諸国が新羅に併合されるという事件が起きた。その結果、百済は新羅と直接国境を接することになり、半島南部の緊張が高まった。一方、加耶地方に従来からの利権を有した我が国は、任那復興は最大の外交課題となった。百済は我が国の事情を十分承知した上で、軍事的な支援を引き出すためにざまな文化的支援を惜しまない。百済の聖王(聖明王ともいう)は、我が国に仏教を伝えた頃から、輪番制で僧侶のみならず、五経博士や易博士、暦博士、医博士、採薬博士などを送り込んでいる。『日本書紀』は、553年および558年に関係記事を示すにすぎないが、この文化支援は聖明王没後も継続して行われていたと思われる。何も588年に飛鳥寺建立のために送り込んできた僧侶たちや技術部隊が、初めてというわけではない。百済の意図は明らかである。日本の軍事的支援をちらつかせ、新羅を牽制することだった。

   百済一辺倒の外交を展開してきた蘇我氏の氏寺に、なぜ高句麗の影があるのか。それには東アジア世界を暗雲のごとく覆い始めた国際的な緊張が影響していると思う。飛鳥寺の建設が始まった翌年の589年、大陸では隋が南方の陳を滅ぼし、晋から数えて280年、漢から数えれば350年ぶりの安定した天下統一を成し遂げた。しかし、隋帝国の成立は東アジア世界に安定ではなく混乱を招くことになる。隋と直接国境を接する高句麗は、そのことをいち早く予知していたに違いない。隋と対峙しながら、百済や新羅から背面を襲われたら適わない。高句麗の平原王はその危惧を払拭すべく遠交近攻の戦略の一環として我が国との一層緊密な関係を模索してきたと思われる。その具体策の一つが、飛鳥寺造営の支援である。その後も、平原王の後を継いだ嬰陽王は、飛鳥寺中金堂の本尊を鋳造するに際して、黄金300両を献じてきた。

 現在の我々は、飛鳥寺の境内でベンチに腰をかけて往事の残映に思いをはせがちであるが、付近の地下に眠る遺構から大伽藍を脳裏に描き出すだけでは不十分である。飛鳥寺建立は、さまざまな国際的な思惑や駆け引きの産物であるであることも想起すべきである。蘇我馬子や聖徳太子が生きた時代は、そうした時代だったのである。隋の煬帝に送った国書が我が国の外交感覚の無さを暴露していると説明する歴史学者がいるが、実際は逆だったと思う。今日と同様に、当時の為政者には研ぎ澄まされた外交感覚と先を読む能力が要求されていたはずである。


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