菟田野・阿騎野(うだの・あきの) 推古天皇の時代、薬狩りが行われた土地

阿騎野の朝
かぎろひ (大宇陀町総務部企画開発課のHPより転載)

【所在】奈良県大宇陀町西山
【アクセス】近畿日本鉄道榛原駅から奈良交通バス大宇陀行きで20分、バス停「大宇陀高校前」下車、徒歩3分


菟田野(うだの)の薬猟(くすりがり)

 推古天皇19年(611)夏5月5日、薬猟(くすりがり)が菟田野で行われた。参加者は夜明け前に藤原池のほとりに集合し、曙に出発した。粟田細目(あわたのほそめ)が先導者として列の先頭に立ち、しんがりは額田部比羅夫(ぬかたべのひらぶ)が勤めた。この日、諸臣はみな冠位の色と同じ服を着て参加したという。一行の中には、聖徳太子はもちろん、遣隋使の大役を果たした小野妹子や太子の股肱の臣である秦河勝らの姿も、当然見受けられたであろう。


 この頃の薬猟とは、鹿の若角をとる猟のことをいう。薬猟が変じて薬草採りを表すようになるのは、もっと後の時代になってからである。一般には、このとき女性たちも参加して薬草を摘んだとされるが、史書からはそのような事実があったかどうか確認できない。鹿の若角は鹿茸(ろくじょう)と呼ばれ、陰乾しにして補強壮剤として用いられた。

 5月5日に薬猟を行なうのは、当時の年中行事の一つになっていたものと思われる。『日本書紀』は、翌年の推古天皇20年、さらに推古天皇22年にも、5月5日に薬猟を行なったと伝えている。薬猟が行われた菟田野は、現在の奈良県宇陀郡榛原町の足立あたりとされているが、確証はない。あるいは天武・持統朝のころ皇室の狩り場とされた阿騎野(あきの、後述)あたりだったかもしれない。

 薬猟の一行が集合したとされる藤原池は、推古天皇15年(607)の冬に大和の国に新しく造られた四つの池(高市池、藤原池、肩岡池、菅原池)の一つである。現在の明日香村小原にあっと想定されている。飛鳥坐神社から東へすこし上がった小原は、古代には大原とも藤原とも呼ばれていたようだ。中臣鎌足の娘で天武天皇の夫人となった五百重娘((いほえのいらつめ)は、大原大刀自(おおとじ)とも藤原夫人と呼ばれていた。

 一行を先導した粟田細目は、その後も政界の重要人物の一人だったようだ。彼の名はもう一度『日本書紀』に登場する。皇極元年(642)12月13日、舒明天皇の喪葬の礼が百済の宮の北で行われた時、軽皇子(後の孝徳天皇)に代わって誅(しのびごと)を読んだのが、この粟田細目である。その時の冠位は小徳であった。一方、行列のしんがりをつとめた額田部比羅夫は、推古天皇16年(608)8月に隋使の裴世清らが来朝した時や、推古天皇18年(610)10月に新羅と任那の使人が来朝した時、客を迎える荘馬(かざりうま)の長に任ぜられた経緯がある。

かぎろひの丘
かぎろひの丘

 冠位の色とは、冠位十二階制で指定された冠の色のことである。この冠位制度は、頭にかぶる冠に縫いつけた絹の色で役人の地位を識別できるようにしたもので、8年前の推古天皇11年(603)12月5日に初めて施行された。12の冠位は儒教の6つの徳目である徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分けて12階とし、冠の色は各位階に対して紫・青・赤・黄・白・黒の色を用い、また各位階の大小に対しては色の濃淡で表したとされている。したがって、この薬猟では、参加者は狩衣にもそれぞれの色の衣装をまとったことになる。さらに、冠にはそれぞれ飾りを付けた。大徳と小徳の位にある者は金の飾りを、大仁と小仁の位にあるものは豹の尾を飾りに用い、大礼より以下の者たちは鳥の尾を冠の飾りとしたという。山野を駆けめぐって鹿狩りを行うにはいささか派手なイデタチに、彼らが通過していった沿道の人々も驚いたであろう。

 遣隋大使として大陸に渡った小野妹子は、二度目の渡航を終えて2年前の推古天皇17年(609)に帰国している。推古天皇15年(607)にはじめて渡隋したとき彼の冠位は「大礼(だいらい)」だった。二回目の渡隋から帰国したとき、その功によって三階級または四階級特進して「小徳」または「大徳」の冠位が授けられたものと思われる。仮に「小徳」に特進していた妹子がこの薬猟に参加したとすれば、薄い紫の衣装に身をかため、同じく薄い紫の絹布を巻き付け金の飾りを付けた冠をかぶっていたはずである。


かぎろひ立つ阿騎野

 ところで、一行は飛鳥から菟田野へどの道を通ったかは分からない。柿本人麻呂の万葉歌で知られる阿騎野(あきの)は天武・持統朝の頃の皇室の狩り場だったところで、現在は大宇陀町に含まれている。万葉学者の犬養孝氏は、飛鳥からこの阿騎野へ出るルートとして次の4つを想定されたことがある。@音羽山を直接越えるルート、A桜井市の忍阪(おっさか)から栗原(おうはら)を経て半阪または女寄峠を越えるルート、B吉隠・西峠を越えて現在のように榛原を廻るルート、C初瀬の谷にある出雲集落から狛峠(海抜380m)を越えるルート、の4つである。このうち、犬養氏はCがもっとも順当なものと考えられた(『万葉の旅<上>』)。しかし、先日「万葉の大和路を歩く会」に参加してこのルートを歩いてみた印象では、とても騎馬で通れる山道ではない。やはり、現在国道166号線が通っているAのルートが一番楽だったのではないかと思われる。

阿騎野の朝
壁画「阿騎野の朝」(制作 中山正實画伯)

 万葉集の巻一には、「軽皇子、阿騎の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂が作れる歌」と題する長歌一首と短歌四首が収められている。持統天皇六年(692)冬、柿本人麻呂が軽皇子(のちの文武天皇)に同行し、皇室の狩り場だった阿騎野を訪れた時に作った歌とされている。その中でも人口を膾炙しているのは、雄大な夜明けの風景を目の当たりにして詠んだ次の歌であろう。

東の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて かえり見すれば 月傾きぬ (巻1-48)

 歌の中の「かぎろひ」については諸説がある。大宇陀観光協会は「厳冬のよく晴れた日の朝、日の出一時間ほど前に現れる陽光」と解釈している。夜明前のひととき、東の空一面が薄赤とも茜(あかね)色とも表現できない美しい色に染まる一瞬の幻想的な自然現象である、という。この歌に詠まれた太陽と月の位置、および仰ぎ見た想定角度を基に、人麻呂が「かげろひ」を見た日時を天文学的に考察すると、旧暦の11月17日午前6時頃にあたるらしい。

 旧暦の11月17日、大宇陀町は「かぎろひを見る会」を町の行事として30年前から毎年続けている。2002年はその日が12月20日だった。残念ながら、華麗な天体ショーは雲に遮られて見られなかった。「かげろひ」をきれいに見ることができたのは、今までに一度だけだったとのことである。

柿本人麻呂像

 大宇陀町の中央公民館には、中山正實画伯がこの人麻呂の歌を画材として制作された壁画「阿騎野の朝」が飾られている。壁画の中の人麻呂はかえり見して月を眺めているが、その騎乗の姿はなかなか躍動的だ。さらに、近くの「阿騎野・人麻呂公園」には、壁画に描かれた柿本人麻呂をそのまま彫刻で表した像が立っている。この像の人麻呂の視線は、はるか東の山並みの稜線をしっかりと捕らえていて、「かぎろひ」を見やっているようだ。「阿騎野・人麻呂公園」の近くの丘は、「かぎろひの丘万葉公園」として整備されている。その頂上には、柿本人麻呂の歌碑があり、万葉植物や東屋、遊歩道がある。


indexに戻る