太子道(たいしみち) 聖徳太子が斑鳩宮と豊浦宮・小墾田宮との往還に利用したとされる古道

太子道の碑
成福寺跡に建つ太子道の石碑

【成福寺跡の所在】奈良県生駒郡斑鳩町上宮
【アクセス】JR「法隆寺駅」より徒歩約15分


7世紀前半以前に建設された筋違(すじかい)道

 
白山神社付近の太子道
 奈良盆地では、東西に走る横大路や南北に走る上ッ道・中ッ道・下ッ道などの古道が極めて明瞭に現存している。これらの道は途中にある丘陵や河川を無視して、正南北・正東西の方位を持つ方格地割――条理地割に従って東西南北に作られている。こうした正方位に計画された道路は7世紀の後半、天智〜天武朝頃に建設されたと考えられている。これに対して、斜めの方位を取る古い地割に沿って走る直線道路があったことも、部分的に確認されている。こうした斜行道路は、7世紀前半以前に建設されたものと推定されている。一般には、「筋違(すじかい)道」と呼んでいる。

 筋違道として知られる古道の一つに、斑鳩(いかるが)と飛鳥(あすか)の間を短距離で結ぶように造られた直線道路がある。北北西に約20度傾いた斜行道路で、現在この道は、北は斑鳩町高安から下ツ道と合う橿原市新ノ口付近に至る約13.5kmが道路や畦道として残っている。聖徳太子がこの道を利用して飛鳥と斑鳩を往復したという伝承があり、そのために「太子道」の名で親しまれていた。中世以降は法隆寺街道ともいわれた。

 考古学的には、太子道に張り付いた弥生時代から古墳時代の遺跡が多い。このため飛鳥川と寺川に営まれた、いわゆる自然堤防上に立地するムラとムラを結ぶ自然道が、弥生時代にはすでに成立していたと考えられる。その自然道が途中の所まで直線道として整備されたのは、屯倉設置の関係から5〜6世紀であろうと推測されている。その後、北の部分は斑鳩付近の古地割りとの関係から7世紀以前には設定されたと考えられている。
成福寺跡

 太子道は、現在の生駒郡斑鳩町の高安付近から東南に延びていた。磯城郡三宅町の屏風(びょうぶ)・伴堂(ともんどう)を通り、田原本町の矢部付近で南北に走る矢継街道にはいり、橿原市八木町から飛鳥川の堤を高市郡明日香村に向かっていた。今も三宅町の屏風から伴堂を経て田原本町の宮古まで、太子道の一部が約3kmほど生活道路としてはっきり残っている。さらに、斑鳩町の小字上宮(かみや)に飽波葦垣(あくなみあしがき)宮の伝承地として知られる成福寺跡がある。この寺跡の前を「太子道」と俗称する里道が遺っていて、石碑が建っている。


道筋に残る多くの太子伝説

 『日本書紀』は推古13年(605)冬10月、聖徳太子がそれまで居所とされた磐余(いわれ)の上宮(かみつみや)から新装なった斑鳩宮(いかるがのみや)に遷られたと伝えている。この宮の造営を開始したのは推古9年(601)2月だから、完成に4年半を要したことになる。皇太子として国政のすべてを任せられた聖徳太子は、居所を斑鳩に構えたとはいえ、政務のために小墾田宮(おはりだノみや)まで”通勤”しなければならない。

 推古天皇の小墾田宮は2年前の推古11年11月に完成している。小墾田宮は、通説では明日香村豊浦にあったとされてきたが、最近では発掘調査の成果から雷丘(いかづちノおか)辺りにあったとされている。それまでの天皇の宮所と異なり、この宮は官吏たちが勤務する政庁に類する建物を備えていた。すなわち、宮の南門を一歩入ると、そこは朝庭と呼ばれ、後の朝堂院に相当する中央広場があり、その両脇に「庁」と呼ばれる政策決定などを行う建物があった。天皇の私的空間(日常生活の場)である「大殿」は、朝庭の奥の閤門と呼ばれる大門の先にあった。

白山神社境内の「腰掛石」

 伝承では、聖徳太子は、仕丁(しちょう、従者)の「調子丸」を従え、愛馬「黒駒」にまたがって、斑鳩から小墾田宮まで、筋違道を通って毎日通われたという。そのため、今でもこの道筋には、多くの太子伝説が残されている。たとえば、太子道の途中に「屏風」という大字がある。その地名は、聖徳太子が太子道を往復する際にここで休憩したとき、村人が屏風を立てて風を防ぎ、食事などの接待したとの故事に由来する。太子が休息した場所は白山神社になっていて、その境内には「駒つなぎの柳」や太子が休憩をとられた「腰掛石(こしかけいし)」が今も残っている。また、橿原市の新口(にのくち)の地名は、太子が途中で喉が渇き、井戸の水を飲まれて「口中これ新なり」と云われたことに由来するという。

駒つなぎの柳
駒つなぎの柳

 当時の百寮(つかさつかさ、各役人)の勤務時間は日の出から正午までだったようだ。日の出前に小墾田宮の南門の前に並び、日の出とともに宮門が開くと、両手を大地につけ、両足を跪(ひざま)ずいて敷居を越えてから立ち上がって、それぞれの庁へ入った。退出するときも同じ礼法で宮門の敷居を越えねばならなかった。摂政の任にあった聖徳太子や大夫(たいふ)達が、各役人たちと同じように毎日早朝から出勤したとは思えないが、太子が斑鳩から小墾田宮まで通ったとしたら、どのくらい時間がかかったであろうか。

 そのことに関して、法隆寺の高田良信氏がその著書『法隆寺のなぞ』の中で、太子道の踏査に5時間20分を要したと記しておられる。その体験から、太子が毎日ここを通うには遠すぎ、そのようなことは無かったとされている。伝説では、太子は黒駒に乗り、調子丸という馬丁を供にして毎日斑鳩宮まで通ったとされている。馬に乗り並足早足を繰り返して進めば、平均20km程度の速度は出せるから、2時間程度の所要時間で足りたとする意見もある。

 太子道という名称から、聖徳太子が斑鳩と飛鳥を往復するために造られた道との印象が強いが、実際はそうではあるまい。考古学的にみると、太子道沿いには弥生遺跡が多い。古墳時代に始まる遺跡も多い。三宅町〜田原本町にかけての地域には20数基の古墳が現在残っている。島ノ山古墳のようには全長195mの規模を持つ大型前方後円墳もある。こうしたことから、この斜行道が成立した時期は古く弥生時代まで遡ると考えられている。


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