難波の堀江(なにわのほりえ) 古代、内陸部との水運のために掘削された人工の運河

天満橋
天満橋から眺めた大川の下流

【所在】大阪市中央区大手前1丁目
【アクセス】地下鉄谷町線「天満橋」駅下車すぐ


 推古天皇の時代の難波津がどこにあったかは、まだ確定していない。学会ではいろいろな説が出されているが、大別すると、1.現在の大阪市中央区三津寺付近、2.現在の天満橋・天神橋付近、3.大阪市中央区高麗橋付近、4.上町台地の東側、である。三津寺は御堂筋の道頓堀川に近いところである。当時倉庫群があった現在のNHK大阪放送局あたりからは、すこし離れている。2.または3.の説が現実的だと思われる。


難波から河内中央部への水路として開削された「難波の堀江」

 現在大阪市内を流れる大川は、1910年(明治43)に新淀川が開削されるまでは淀川の本流だった。大川にかかる天満橋は、商都大阪の各河川を循環する巡航船の起点として、明治時代には多くの人々で賑わったという。この大川は自然にできた河川ではない。古代に人工的に開削された水路で、当時は「難波の堀江」と呼ばれていた。なぜ難波の堀江が掘削されたのか、その理由を振り返ってみよう。

 そのためには、まず大阪平野の成り立ちを理解しておかなければならない。今ではとても信じられないが、4000年ほど前は、大阪平野の北東部はまだ河内湾と呼ばれる海だった。そして、淀川や旧大和川水系からの流水はこの河内湾に流れ込んでいた(現在の大和川は西に直流して大阪湾に注いでいるが、水路をこのように改修したのは1704年のことである)。その頃の上町台地は大阪湾と河内湾の間に突き出た半島に過ぎなかった。

河内湖

 淀川や旧大和川水系から長い間に大量の土砂が流れ込んだ結果、河内湾の周りに三角州ができ、また上町台地の北側に砂州が発達していった。そして1800年から1600年前ほど前には、北へ延びた砂州によって大阪湾と河内湾が遮られてしまった。そのため河内湾の淡水化が進み、河内湾は河内湖に変わった。河内湖に流れ込んだ水は現在の神崎川あたりを西に流れて大阪湾に注いでいた。

 縄文時代から弥生時代にかけて、河口湖周辺部には漁労生活や水稲耕作を中心とする生活を営む人々が住んでいた。森ノ宮遺跡や瓜破(うりわり)遺跡、長原遺跡などがその住居跡として発見されている。しかしこの頃の上町台地は、カシやシイ、モミなどの常緑樹の原生林で覆われていた。この地域が本格的に開発されるのは、5世紀を待たなければならない。4世紀末から5世紀はじめにかけて、乾田農法という新しい農耕技術とU字形鍬先を含む新しい鉄製農具の携えた渡来人が朝鮮半島から移住してきた。彼らの一部は上町台地の周辺に住み着いて原生林を切り開いていった。それと並行して、河内湖の干拓も大々的に押し進めた。その結果、大和川水系は大阪平野を西北に流れて上町台地の東北端で淀川と合流することとなった。

 5世紀は「倭の五王」の時代と言われるように、この頃には日本列島を代表する政治勢力が河内・和泉地方に生まれている。この政治勢力にとって、難波地域は西国や朝鮮半島、中国への交通の要地として特別な意味を持つ地域だった。そのため4つの港津が開かれた。現在の堺市大小路付近に位置していたと推定される榎津(えなつ)、住吉神社の西方に位置していたと考えられる住吉津、大阪市中央区三津寺付近にあったとされる難波津、そして現在の堂島川の玉江橋の北に位置していたと思われる江口である。このうち、江口は港津として機能したのではなく、難波津に来航する外交使節を威儀を整えて迎える場であったらしい。

 6世紀、大和朝廷の政治勢力は現在の奈良県桜井市がある磐余地方に移る。しかし難波は引き続き外交・西国経営の要地であった。特に難波津は大和朝廷の表玄関としてその重要性を増していた。難波津まで運ばれてきた西国からの物資や半島諸国からの献上品を大和に移送するには、陸路を運ぶより川船で河口湖から大和川をさかのぼって運ぶ方が便利である。さらに、台地東北部の集落は、水はけが悪いため大雨が降るたびに洪水に見舞われていた。しかし水路を築いて流水を大阪湾に導くことで、これらの集落を水害から守ることができる。

 こうした一石二鳥の効果をねらって、上町台地の北側にあたる天満砂堆を東西に切り開いて水路が造られることになった。これが難波の堀江であり、現在の大川の最初の姿である。『古事記』は仁徳紀11年に「宮の北の野原を掘りて南の水を引きて西の海に入る。因りて、その水を名付けて堀江という」と記している。しかし、実際に堀江の開削が行われたのは6世紀のこととされている。


堀江の南岸には外交館舎や屯倉の倉庫群があった

 大阪市内の上町筋を大川べりから南に歩くと、土地が緩やかに隆起して台地になっているのが分かる。台地の北端に近い最高所は海抜23〜24mの高さに位置し、現在は大阪城公園の南に隣接する「難波宮跡」として整備されている。難波宮跡の地下には、孝徳天皇時代の前期難波宮(=難波長柄豊碕宮)や聖武天皇時代の後期難波宮の遺構が眠っている。堀江を見下ろすこの台地には、6世紀の初めごろ難波館(なにわのむろつみ)が外交施設として築かれた。継体天皇6年(512)12月、貢調使として訪れた百済の使臣が、難波館で調を献ずるとともに任那四県の割譲を求め、その後もこの館にとどまり回答を待っていたと、『日本書紀』は伝えている。

 聖徳太子の時代には、それぞれの国の使節が留住する館舎として、難波館に代わって百済館、高句麗館、新羅館が建てられていたようだ。推古天皇16年(608)4月に隋使の裴世清 (はいせいせい)が小野妹子に従って来朝した時には、隋使のための新館をわざわを高句麗館の上に造らせている。これらの外交館舎とは別に、外交使節を集めて一定の儀式を行なう公的な場として難波大郡(なにわのおおごいり)が建てられていた。

倉庫群
法円坂の倉庫群

 大阪城内にあった市立博物館の後継として歴史博物館が、NHK大阪放送局の隣に2001年秋にオープンした。その博物館の南側の敷地は法円坂遺跡として整備されている。この遺跡は5世紀後半に作られた倉庫の跡で、2列16棟からなる大型倉庫群からなる。倉庫は平均90平方メートルの面積を持つ高床式の建物であった。これらは西国の屯倉(みやけ)から貢納される品物を収納した倉庫だったと思われる。

 古代の難波を本拠とした氏族の一つに、難波忌寸(いみき)や日下部忌寸らの母胎である吉士(きし)一族がいる。彼らは5世紀末から6世紀の初めに新羅から渡来した集団である。中央の安部氏と密接な関係を持ちながら、難波で海外交渉や屯倉の管理にあたっていた。


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