上之宮遺跡(うえのみやいせき) 聖徳太子が20年間居所としたと推定される宮跡

上之宮遺跡
上宮庭園遺跡

【所在】桜井市上之宮
【アクセス】JR/近鉄桜井駅より徒歩約15分


桜井商業高校の東で発掘された豪族の居館跡

 聖徳太子が幼少・青年期を過ごしたとされる上宮(かみつみや、うえのみや)の名称は、父の用明天皇の宮の上方に営まれたことに由来すると言われている。『日本書紀』によれば、用明天皇は磐余(いわれ)池の近くに磐余池辺雙槻宮(いわれいけのべのなみつきのみや)を営んだ。雙槻宮の所在が特定できれば、上宮の位置も想定が可能なのだが、実は肝心の雙槻宮の比定地に複数の説がある。桜井市吉備の春日神社付近とする説と桜井市谷の石寸山口神社付近とする説である。このため、上宮の位置がなかなか特定できないでいた。

 桜井市は、桜井南部特定区画整理事業にともなう発掘調査を長年実施してきた。1986年から実施した発掘調査では、上之宮地区の桜井商業高校の東で、豪族の居館遺構が発見された。遺構は、なだらかな丘陵の北東斜面にひろがっていた。すぐ東を寺川が流れ、正面には神武伝承で知られる鳥見山や、三輪山がみえる景勝の土地に位置してる。遺跡の規模は東西およそ5、60m、南北およそ100mで、その範囲に、当時としては第一級の規模・格式をもった、四面庇(ひさし)付大型建物の居館遺構をはじめ、倉庫群や掘立柱建物が配置されていた。これらの建物をとりまく柵列と溝が東と南側に造られ、西側にはこれらの建物群に付属していたと思われる園池遺構や石組み遺構が検出された。

 この遺跡は、一辺が約100mの方形区画の中に収まっているところから、6世紀後半から7世紀初頭にかけての豪族居館の跡と推定された。さらに、同時に出土した木簡、琴柱、ベッコウ等の貴重品や、ここの地名が上之宮(うえのみや)であることから、聖徳太子が住んだ上宮の可能性が高く、がぜん世間から注目される遺跡となった。しかし、この地域が古代の大豪族・阿倍氏の本拠に近いころから、阿倍氏の館とする説、あるいは崇峻天皇の宮殿説、渡来系氏族・谷氏の居館説などもある。

 発掘された居館跡は、その後史跡として整備され、現在は住宅の中に「上之宮庭園遺跡」の名でこじんまりと静まりかえっている。
aaa aaa
園池遺構や石組み遺構 居館の復元イメージ


上之宮遺跡を聖徳太子の居館跡と仮定した場合

 この居館跡が聖徳太子が過ごした上宮だとしたら、父・用明天皇の磐余池辺雙槻宮の所在が問題になる。『日本書紀』の記載が正しければ、雙槻宮は上宮の北に位置していなければならない。桜井市吉備の春日神社を比定地とした場合、上宮から見て北西方向に偏している。桜井市谷の石寸山口神社を比定地とした場合は、上宮からみてほぼ北に位置している。しかし、この場合、山口神社付近に磐余池があったかどうかが問題になる。通説では、磐余池は桜井市の池之内から橿原市の東池尻町あたりにあったとされている。

 父の橘豊日(たちばなのとよひ)皇子が用明天皇として登極されたのは、585年9月である。一方、聖徳太子が斑鳩宮に居を移したのは605年10月である。したがって聖徳太子は12才から32才までの約20年間をこの上宮で過ごしたことになる。特に、推古天皇から政務をことごとく委ねられてからは、12年間ここから豊浦の宮や小墾田の宮へ通ったことになる。そのルートを考察するならば、西の阿倍寺まで出て、そこから山田道を利用して明日香に入ったと考えられる。

 さらに、上宮は崇峻天皇の倉梯柴垣宮に意外と近い。592年に蘇我馬子が刺客の東倭直(やまとのあやのあたい)の駒を使って崇峻天皇を刺殺したのは、柴垣宮で東国から貢ぎ物を献上する儀式の最中だった。聖徳太子がその儀式に参列して、悲劇の現場を目撃していた可能性がないとは言えない。



indexに戻る