豊浦宮(とゆらのみや)跡 推古天皇が592年に登極した宮

豊浦宮・豊浦寺の跡地に建つ向原寺
豊浦宮・豊浦寺の跡地に建つ向原寺

【所在】奈良県明日香村豊浦
【アクセス】近鉄橿原神宮前から岡寺前行き奈良交通バス、豊浦バス停下車す

飛鳥の地に最初に営まれた宮

 592年(崇峻5)12月8日、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が豊浦宮にて33代推古天皇として即位された。その宮の跡地は、現在明日香村豊浦にある向原寺およびその近隣の地下に眠っている。およそ一ヶ月前、蘇我馬子が東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って崇峻天皇を殺害するという前代未聞の事件が発生した。群臣たちは敏達天皇の皇后であった豊御食炊屋姫に皇位につくよう嘆願した。姫は何度も辞退したが、三度目の上表文でなおも懇願されたため、ついに群臣たちの要望に従ったという。

 なにしろ大事件の直後の登極だったため、正式な宮を造営する時間がなかった。そのため、おそらく蘇我本宗家の邸宅の一画を仮宮とした程度のものだったと思われる。603年に、推古天皇は新しく造営された小墾田の宮へ移り、豊浦の宮の跡地には豊浦寺が建立された。豊浦寺の後身である現在の向原寺で実施された発掘調査では、最下層で豊浦の宮の掘立柱の跡が確認されている。飛鳥の地に最初の宮居が営まれた意義は大きい。その後は難波(大阪市)、朝倉(福岡県朝倉町)、大津(滋賀県大津市)に一時的に宮を遷したこともあるが、694年に新益京=藤原京に遷都するまでのおよそ100年間飛鳥は王城の地として栄えることになる。

 即位した翌年の4月3日、推古天皇は聖徳太子を皇太子に立てて、国政をすべて任せたと、『日本書紀』は伝える。従来からさまざまな説を生んできた問題の箇所である。現在の通説では、我が国の古い時代には、天皇の生存中に後継者を指名する制度はなく、皇太子制が成立するのは飛鳥浄御原令(689年制定)からであるとされている。こうした通説に従うならば、聖徳太子の立太子の記事は『日本書紀』編者の捏造ということになる。

 しかし、反論もある。未曾有の政局の混乱を収拾するために苦肉の策として、推古女帝を登場させた裏には、推古天皇は不摂政を条件とされた、と推測できる。そのため、後代のような皇位後継者としてではなく、実際に女帝に代わって政務を総覧する皇族として、聖徳太子が指名された可能性は十分ある。すでに聖徳太子は20才の青年皇族に成長していた。

 後者の場合、聖徳太子は上之宮からこの豊浦宮にほとんど毎日通い、蘇我馬子を補佐として政務をこなしたことになる。だが、推古天皇が603年10月に小墾田宮に遷るまでのほぼ10年間、『日本書紀』は聖徳太子の事績と思われるようなことはほとんど何も伝えていない。不思議なことである。



推古天皇の豊浦宮時代の主なトピックス

  • 崇峻5年(592)12月、炊屋姫が豊浦宮において即位する。
  • 推古元年(593)1月、仏舎利を法興寺の仏塔の心礎の中に安置し、塔の心柱を建てる。4月、聖徳太子を皇太子に立てて国政をすべて任せられる。この年、四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造り始める。
  • 推古2年(594)2月、仏教興隆の詔を発する。
  • 推古3年(595)5月、高句麗僧の恵慈が来朝し、太子の師となる。7月、任那復興軍の将軍たちを筑紫から引き上げさせる。この年、百済の僧恵聡も来朝する。
  • 推古4年(596)11月、法興寺落成
  • 推古5年(597)4月、百済が王子阿佐を遣わして調を奉る。11月、吉士磐金を新羅に遣わす。
  • 推古6年(598)4月、吉士磐金が帰国してカササギ二羽を奉る。8月、新羅が孔雀一羽を献上してくる。
  • 推古8年(600)2月、新羅と任那が戦う。この年、新羅征討軍を送り新羅を撃つ。新羅の五城を攻略する。
  • 推古9年(601)2月、聖徳太子が初めて宮を斑鳩に造る。9月、新羅の間諜・迦摩多(かまた)を捕らえて上野国に流す。
  • 推古10年(602)2月、来目皇子を新羅攻略の将軍に任命し、4月に筑紫に赴かせる。10月、百済の僧・観勒が来朝し、暦本を献ず。閏10月、高句麗の僧・僧隆と雲聡が来朝する。
  • 推古11年(602)2月、来目皇子が築紫で薨去する。4月、来目皇子の兄・当麻皇子を新羅を撃つ将軍とする。7月、当麻皇子の妻の舎人姫王が明石で亡くなったため、皇子が帰任し征討はさた止みとなる。


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