小墾田宮(おはりだのみや)跡  2カ所ある小墾田の宮推定地

ああああ
小墾田宮跡とされてきた土壇

【所在】奈良県高市郡明日香村豊浦 【
【アクセス】近鉄橿原神宮前から岡寺前行き奈良交通バス、豊浦バス停下車すぐ


推古天皇の二番目の宮として造営された小墾田の宮

 『日本書紀』によれば、603年(推古11)10月4日、推古天皇はそれまで過ごした豊浦の宮から小墾田の宮へ遷られた。女帝は11年前に豊浦の宮で即位された。崇峻天皇暗殺という大事件の直後のあわただしい即位だったので、おそらく新しい宮を造営する時間がなかったのであろう。豊浦にあった蘇我家の邸宅の一画を仮宮として即位されたものと思われる。

 小墾田の宮跡とされる場所が、明日香村の豊浦に残っている。県道124号線が豊浦の集落に入るあたりで左手を見やると、田圃の中に一本の木がそびえている。小墾田の宮跡伝承地の目印とされている木で、その根元は「古宮土壇(ふるのみやどだん)」と呼ばれている盛り土で高くなっている。1970年と1973年に行われた発掘調査では、川原石を組んで作った溝や、小池を持つ庭園、石敷き、掘立柱建物跡などが出土した。これらは小墾田の宮を構成する宮殿遺構の一部と考えられた。

 しかし、飛鳥川右岸の雷丘東方遺跡で「小治田宮」とか「小治宮」と墨書された土器が見つかった。そのため、最近ではこの遺跡が小墾田の宮跡である可能性が強くなってきた。そうであれば、古宮土壇で発掘された遺構は何だったかが問題になる。地理的に豊浦の宮に隣接し、出土瓦も豊浦寺のそれに共通することから、最近では蘇我氏の邸宅跡と見なされるようになってきている。


雷丘の東方で見つかった小墾田の宮推定地

甘樫丘のすぐ北を流れる飛鳥川を挟んで、全体を竹藪で覆われた小さな丘があり、雷丘(いかずちのおか)と呼ばれている。雷丘の東南部分が四ツ角交差点になっており、その交差点から南下する道路脇に雷丘東方遺跡がある。奈良国立文化財研究所はこの地で数次の発掘調査を実施してきたが、この遺跡から「小治田宮」とか「小治宮」とかいう文字が書かれた墨書土器を発見した。

 さらに、この遺跡の井戸枠を、年輪年代測定法で調べたところ、758年ごろに伐採された「ヒノキ材」であることが分かった。『続日本紀』によると、760年(天平宝字4)、淳仁天皇が「小治田宮」に行幸しており、井戸や周辺の建物跡は、この時に整備された仮宮であると推測されている。こうした発掘調査の結果を踏まえて、最近では雷丘東方遺跡が小墾田の宮の跡地である可能性が高いとする説が有力になっている。

 『日本書紀』は608年(推古16)に来朝した隋使・裴世清(はいせいせい)の一行を小墾田の宮で謁見した様子を克明に記している。610年(推古18)に来朝した新羅使節との謁見についても、同じような調子で記述している。これらの記述を分析することで、小墾田の宮の構造がある程度見えてくる。宮の内部はすでに天皇の私的空間(日常生活の場)と儀式その他の公事を行う公的空間に区分されていて、後の内裏を思わせるような建物群があったと思われる。

 なぜ11年も過ごした豊浦の宮に代わる新しい宮を造営したか。その理由は、豊浦の宮が仮宮であったとすることで、ある程度納得できる。だが、実際はもっと他の理由があったと思われる。そのヒントは600年に派遣されたとされる遣隋使にある。彼らが目の当たりにした洛陽城や太興城の圧倒的な規模は、帰国したとき当時の為政者にも報告されただろう。カルチャーショックを受けた彼らは、宮の概念を根本から変える必要性を痛感したにちがいない。新しい宮の概念を実現したのが、小墾田の宮だったかもしれない。


推古天皇の小墾田宮時代の主なトピックス

  • 推古11年(603)10月、豊浦宮から小墾田宮へ遷る。11月、太子が秦河勝(はたのかわかつ)に仏像を与える。河勝は仏像を頂いて蜂岡寺(今の広隆寺)を造る。12月、はじめて冠位を施行する。
  • 推古12年(604)4月、憲法十七条を制定する。9月、朝廷の礼法を改める。
  • 推古13年(605)4月、鞍作止利に命じて銅と繍(ぬいもの)の仏像を造らせる。10月、太子が斑鳩宮に移られる。
  • 推古14年(606)4月、銅と繍(ぬいもの)の仏像が完成し、法興寺に安置する。7月、天皇が太子を招き、勝鬘経を講じせしめる。この年、太子はまた法華経を岡本宮で講じる。
  • 推古15年(607)7月、大礼小野妹子を随に派遣する。
  • 推古16年(608)4月、小野妹子が隋より帰朝。隋使裴世清と下客(しもべ)十二人を伴う。9月、隋使たちの帰国に際し、再び小野妹子を遣隋使として派遣する。このとき留学僧・留学生8人が同行する。
  • 推古17年(609)4月、百済僧および俗人ら八十余名を乗せた船が肥後国葦北に漂着、翌月一行を百済に送りつけるが、修道者十一人が在留を希望したので法興寺に住まわせる。9月、小野妹子が隋から帰国する。
  • 推古18年(610)3月、高句麗から僧曇徴(どんちょう)が来朝、絵の具・紙・墨などの製法を伝える。9月、新羅と任那の使節が来朝、10月に一行を都で饗応する。
  • 推古19年(611)5月,菟田野で薬猟(くすりがり)を催す。
  • 推古20年(612)2月、堅塩姫(きたしひめ)を檜隈大陵に改葬する。
  • 推古20年(612)5月、薬猟を催す。この年、百済から路子工(みちこのたくみ)が来朝し、須弥山や呉橋を宮の庭に造る。また、味摩之(みまし)が来朝し、伎楽(くれがく)を伝える。
  • 推古21年(613)11月、掖上池その他を造る。また、難波から都に至る大道を設ける。12月、太子が片岡で飢人に会い、食べ物と衣装を与える。
  • 推古22年(614)5月、薬猟を催す。6月、犬上御田鋤を隋に派遣する。8月、蘇我馬子が病気になり、病気平癒のため男女一千人を出家させる。
  • 推古23年(615)9月、犬上御田鋤が隋から帰朝。12月、高句麗僧恵慈が本国に帰国する。
  • 推古24年(616)7月、新羅が奈未竹世士(なまちくせいし)を遣わして、仏像を献上する。この年、屋久島から前後合わせて三十人が帰化し、すべてを朴井(えのい、岸和田市あたり)に住まわせる。
  • 推古26年(618)8月、高句麗使節が来朝し、土地の産物とともに隋の捕虜二人を献上する。
  • 推古28年(620)10月、細石を檜隈陵に敷き、域外の土を積み上げて山を作り、山の上に大きな柱を建てる。この年、太子と馬子が相議って天皇記および国記などを作る。
  • 推古29年(621)2月、聖徳太子が斑鳩宮で薨去、磯長陵に葬る。
  • 推古31年(623)7月、新羅および任那の使節が来朝し、仏像一体および金塔、仏舎利、観頂用の大小の旗を献上する。使節に同行して学問僧の恵斉、恵光らが帰国する。この年、新羅が任那を討ったため、新羅征討を諮る。また吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に派遣する。
  • 推古32年(624)4月、一人の僧が斧で祖父を打った事件を機に、僧正・僧都を任命する。9月、寺および僧尼を調査して記録する(このとき寺の数46,僧816人,尼569人)。10月、蘇我馬子、葛城県の割譲を請うが、天皇これを許さず。
  • 推古33年(625)1月、高句麗僧・恵灌が三論宗を伝える。
  • 推古34年(626)5月、蘇我馬子没す。
  • 推古36年(628)3月、推古天皇が薨去。9月、天皇の遺骸を竹田皇子の陵に合葬する。


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