575年、敏達天皇が百済大井から新たに訳語田に遷された宮
聖徳太子が誕生されたとされる西暦574年は、敏達天皇3年にあたる。その3年前、第29代欽明天皇が磯城島金刺宮(しきしまのかねさしのみや)で崩御された。翌572年4月3日、後を嗣いで皇太子の淳中倉太珠敷(ぬなくらのふとたましき)皇子が第30代敏達天皇として即位すると、すぐに百済大井(くだらのおおい)に宮を設けられた。したがって、太子が誕生した頃、天皇の宮は百済の大井にあった。
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| 吉備池廃寺跡が沈んでいる吉備池 |
その宮地であるが、現在の大阪府河内長野市太井と奈良県北葛城郡広陵町百済の二カ所が比定されている。だが、いずれの土地も過去数代の天皇が宮居とされた磯城(しき)や磐余(いわれ)とは遠くかけ離れていて、従来から疑問視されてきた。ところが、桜井市吉備にある「吉備池」周辺を発掘調査していた奈良国立文化財研究所が、最近池の底で古代寺院跡を発見し、これを吉備池廃寺と名付け、百済大寺(くだらおおでら)の跡に違いないと発表した。
百済大寺とは、第34代舒明天皇が西暦639年に百済川のほとりに、百済宮とともに建立することを決めた寺である。吉備池付近を流れている川は米川であって百済川ではないが、あるいは当時は百済川と呼ばれていたのかもしれない。吉備池廃寺が百済大寺であるなら、舒明天皇の百済大宮もこのあたりにあったことになる。さらにさかのぼれば、敏達天皇の百済大井宮もこの付近を想定するのも不可能ではない。
敏達天皇4年(575)、天皇は卜部(うらべ)に命じて、訳語田(おさだ)にある海部王(あまのおおきみ)の家地と糸井王(いといのおおきみ)の家地を占わせた。吉と出たので、そこに新たな宮をに営んだという。これが幸玉宮(さきたまのみや)である。『古事記』には他田宮(おさだのみや)とある。桜井市の「阿倍」交差点から国道169号線を北に向かうと、近鉄大阪線のガードをくぐっってすぐの所に「春日神社」がある。この神社のあるあたりが幸玉宮の跡地と推定され、境内に桜井市教育委員会が建てた案内板が立っている。その案内板には、以下のように記述されている。
”敏達天皇訳語田・幸玉宮推定地 敏達天皇の訳語田幸玉宮について、『扶桑略記』『帝王編年記はともに磐余訳語田宮とし、磐余の範囲内にあったことが確認できる。訳語田幸玉宮の所在地については、従来、桜井市太田とする説と桜井市戒重とする二説があった。しかし、戒重村はかって他田庄と呼ばれ、また、戒重村の小字「和佐田」(わさだ)は明治以前「他田」(おさだ)であった。そしてこの春日神社は古くは他田宮(長田宮)と称したことなどからこの地域が考えれる。”
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