磐余池辺双槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)跡 聖徳太子の父・用明天皇が宮と定めた所

春日神社
磐余池辺双槻宮があったとされる付近の春日神社

【所在】奈良県桜井市吉備
【アクセス】JR・近鉄大福駅から南へ約1km。またはJR・近鉄桜井駅から奈良交通バス、バス停「阿倍新町」または「吉備」下車、徒歩数分


聖徳太子の父・用明天皇の宮跡:現在2カ所の推定地がある

 聖徳太子が数えで12才になられた585年の8月、敏達天皇が在位14年で病没された。敏達天皇は最初の皇后・広姫との間に押坂彦人(おしさかひこひと)皇子をもうけていた。『日本書紀』には押坂彦人大兄皇子と表示されているので、皇位後継者として敏達朝の朝政に参画したこともあったであろう。だが皇位はこの皇子にまわらず、天皇の弟で、聖徳太子の父である橘豊日(たちばなのとよひ)皇子が即位した。第31代用明天皇である。

 橘豊日皇子は、欽明天皇の第4皇子で、蘇我氏を外戚に持つ初の天皇である。押坂彦人皇子を押しのけて皇位に推挙されたのは、敏達天皇の皇后だった同母妹の堅塩姫(きたしひめ、のちの推古天皇)や叔父の蘇我馬子(そがのうまこ)の強力な推しがあったためとされている。当時は、皇后も皇位継承でかなり発言権をもっていた。残念ながら、押坂彦人皇子の母の広姫は575年に死去しており、母の実家筋にあたる息長氏もそれほど実力のある氏族ではなかった。

春日神社
春日神社の境内
 用明天皇は磐余(いわれ)池の畔に新しい宮を造営した。宮の前にケヤキの大木が二本そびえていたので、磐余池辺双槻宮(いわれいけのべのなみつきのみや)と呼ばれた。ところが、現在この宮跡の所在がはっきりしない。磐余池は磐余の里に造られた大池のことで、『日本書紀』履中天皇2年11月に「磐余池を作る」とある。磐余とは、現在の桜井市南西部の池之内、橋本、阿部から橿原市の東池尻町を含む同市南東部にかけての古地名である。だからこれらの地域のどこかに灌漑用の池が造られたものと思われる。古代の天皇の都には、「磐余」をその名前に冠したものが多い。第17代履中天皇の磐余稚桜宮(わかざくらのみや)、第22代清寧天皇の磐余甕栗宮(みかぐりのみや)、第26代継体天皇の磐余玉穂宮(たまほのみや)などである。これらの宮は磐余池の畔に営まれた。用明天皇もまた磐余池に面して宮を営んだ。

 伝承では、桜井市吉備にある春日神社あたりに磐余池辺双槻宮あったとされている。しかし、確証がある訳ではない。春日神社の横に「磐余邑」の碑が立っている。このあたりは神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が決戦した故地でもある。春日神社の近くにため池がある。残念ながら磐余池ではなくて、吉備池と呼ばれている灌漑用の池である。最近の発掘調査で池の底から寺院跡が発見された。「吉備池廃寺」と名付けられたが、舒明天皇の時代に建立された百済大寺ではないかと推測されている。
吉備池
春日神社の脇にある吉備池

 聖徳太子は上宮皇子とも呼ばれた。605年に斑鳩宮に遷るまで住んでいた宮が上宮(かみつみや)という場所にあったためである。『日本書紀』や『上宮聖徳法皇帝説』には、この上宮が用明天皇の宮の"南"にあったと記す。先年、桜井市上之宮(うえのみや)近くの、寺川を見下ろす台地で飛鳥時代の住居跡が発見され、上之宮遺跡と名付けられた。聖徳太子が斑鳩宮に遷るまで居所とされた上宮(かみつみや)の跡とされている。

石寸山口神社
石寸山口神社前の菰池
 上に述べた春日神社とこの上之宮遺跡の位置関係を地図で確認すると、上之宮遺跡は春日神社の東南にあり、南に位置するとはちょっと言い難い。このため、磐余池は桜井市谷あたりにあったとし、双槻宮の所在を石寸(いわれ)山口神社あたりに求める説もある。この神社は桜井市の市街地の南に位置する阿倍山丘陵の北の端に立っている。山口神社の前には菰池(こもいけ)があり、その池を見下ろす台地で、最近双築(なみつき)古墳が発見された。双築古墳からは、桜井市の市街地を一望することができる。近くには履中天皇の磐余稚桜宮推定値の候補になっている若桜神社がある。このあたりは上之宮遺跡の北に位置するので古書との伝承とも合う。しかし、そのためには、当時は安部山丘陵の麓付近まで磐余池が延びていたと推定することが必要である。はたしてどうだったろうか。


聖徳太子の父ながら、在位2年たらずで病に倒れた天皇

 用明天皇は異母妹の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女を妃としていた。即位した翌年の正月、穴穂部間人皇女を立てて皇后とした。二人の間には四人の皇子が生まれている。その長子が聖徳太子である。用明天皇が即位した年、聖徳太子は数え年で12才の少年だった。このことから新しい天皇は30才前後の若い天皇だったことが分かる。

 だが、その在位は余りに短かった。在位2年目の4月2日、磐余の河上で新嘗(にいなめ)大祭が執り行われた日、天皇は病で倒れた。疱瘡(ほうそう)だった。新嘗祭とは、天皇が新穀を天神地祇にすすめ、また、親しくこれを食する祭儀のことである。古くは陰暦11月の中の卯の日に行われた。天皇の即位後に初めて行う新嘗祭を大嘗祭(おおにえのまつり)と呼び、天皇の即位を天下に知らしめる大切な祭儀だった。用明天皇がこの祭儀がなぜ旧暦の4月に行なったのか不明である。それからわずか一週間後、天皇は双槻宮の大殿で崩じてしまう。まことにあっけない最後だった。もう少し存命でいてくれたら、聖徳太子は間違いなく次期天皇として皇位を継承したはずである。

 用明天皇は信心深い人柄だったようだ。『日本書紀』は「仏法を信じられ、神道を尊ばれた」と評している。病に倒れた天皇は、仏法にすがろうと思うがどうかと群臣にはかった。廃仏派の物部守屋や中臣勝海は、国神に背き他国神を敬おうとする天皇の態度を非難し、崇仏派の蘇我馬子は、天皇の意向を尊重し、天皇の仏教帰依を助けるべきだと主張した。群臣の間でこうした議論が紛糾しているとき、穴穂部皇子は豊国法師(とよくにほうし)を内裏へ導き入れたという。僧侶が天皇の居所に招かれた最初とされている。豊国とは豊前と豊後に分かれる前の国名で、新羅や加耶系の渡来人が多く居住していた。当時の僧侶は医療にも携わっており、豊国法師の名声は大和にも聞こえていたものと思われる。

 天皇の病が重く明日をも知れなくなったとき、鞍作多須奈(くらつくりのたすな)が進み出て「私は天皇のおんために出家して修道しましょう。また丈六と仏像と寺を造りましょう、と奏上した。天皇はこれを聞いて大いに泣かれたという。鞍作多須奈は仏師として名高い鞍作止利(くらつくりのとり)の父である。出家して徳斉法師と名のった。多須奈は南淵に坂田寺を造営し、木造の丈六仏と脇侍の菩薩を作って本尊としたと伝える。


用明朝の主なトピックス

  • 敏達14年(585)9月、先帝の薨去によって、橘豊日皇子が即位し、磐余地のほとりに宮を営む。磐余池辺双槻宮という。敏達朝に引き続いて物部守屋を大連に、蘇我馬子を大臣とする。須加手姫(すかてひめ)を齋宮(いつきのみや)として伊勢神宮に遣わす。
  • 用明元年(586)1月、穴穂部間人皇女を立てて皇后とする。5月、穴穂部皇子が豊御食豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)を犯そうとして殯宮(もがりのみや)に侵入し、三輪君逆(さかう)に阻止されるという事件が起きる。
  • 用明2年(587)4月、磐余の河上で新嘗祭を行うが、天皇が病に倒れ、仏教帰依を群臣に諮る。この月、用明天皇薨去。6月、蘇我馬子らは豊御食豊御食炊屋姫を奉じて穴穂部皇子と宅部皇子を殺す。7月、蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす。

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