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【所在】奈良県桜井市大字倉橋 |
蘇我馬子の傀儡として担ぎ出された崇峻天皇の宮聖徳太子の父・用明天皇は587年4月、新嘗大祭の途中で病気にかかり、その月の9日、磐余池辺双槻宮で崩御された。まだ14才の少年だった聖徳太子にとって、あまりに早い父の死だった。殯の宮が営まれ、7月21日磐余池上陵に葬られた(のちに、大阪府南河内郡太子町春日に改葬される)。 用明天皇の崩御は、新たな皇位継承争いの火種となった。物部氏と蘇我氏との朝廷での勢力争いがそれにからんで、磐余の地は不穏な日々が続いた。当時は軍事氏族の物部氏が朝廷勢力の一方の雄だった。もう一方の雄は、渡来氏族との連携を強め、また娘たちを天皇の妃とすることで急成長著しい蘇我氏である。その頃の物部本宗家の当主は物部守屋、蘇我本宗家の当主は蘇我馬子だった。いずれも大連、大臣として朝廷の中枢として絶大な勢力を誇っていた。といって、両者が犬猿の仲だったわけではない。その証拠に馬子は守屋の妹を妻としている。蝦夷(えみし)はこの両親から生まれた。『日本書紀』は両者の対立を崇仏廃仏論争として描くが、これは後世の仏家の修飾であるとする説が多い。直接の契機はやはり前回の皇位継承争いあたりであろう。
皇位継承争いを解決するため、蘇我馬子は果敢な行動に出た。敏達天皇の皇后として隠然たる勢力を保持していた堅塩姫と結託して、まず穴穂部皇子を殺害してしまった。そして、用明天皇の喪が明けるのを待って、諸皇子と諸豪族を糾合して、河内の阿刀に退いていた物部守屋を襲撃し、物部本宗家を滅亡に追いやってしまった。聖徳太子がこの戦闘に参加し、味方の形勢が不利なのを見て、四天王の加護を求めたという有名な話が『日本書紀』に記載されている。このとき皇子は白膠木(ぬりで)を切り取ると急いで四天王像を作り、それを髪に縛り付けて味方の勝利を祈願した。後にこのときの加護に報いるため、聖徳太子は四天王寺を建立したという。だが、この話も後に発生した太子信仰から、仏家の手によって創作された説話であるとされている。
物部一族を滅ぼした後、蘇我馬子と堅塩姫が次期天皇として擁立したのは、穴穂部皇子の弟の泊瀬部(はつせべ)皇子である。泊瀬部皇子は587年8月2日、第32代崇峻天皇として即位し、倉梯柴垣宮を宮居と定めた。現在、桜井市倉橋にある崇峻天皇陵の手前左手に民家のような「金福寺」という寺がある。その寺が宮跡であると伝えられている。
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崇峻朝主なトピックス
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