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【所在】奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 |
法隆寺東院の地下に眠る斑鳩の宮法隆寺を訪れて、西院伽藍だけでなく東院伽藍にも足をのばす参拝客は多い。東大門を出て広い石畳の道を進むと、東院伽藍の四脚門の前に出る。門をくぐって境内にはいると、回廊に囲まれた国宝・夢殿の美しい姿が目に飛び込んでくる。739年(天平11)に行信(ぎょうしん)僧都が聖徳太子(=聖徳太子)の冥福を祈るために建立した八角円堂で、現存する八角円堂のうち最古のものとされている。「夢殿」の名は、この付近に聖徳太子が瞑想にふけった居室があったことに因んだ名前だという。 『東院縁起』によれば、かっての上宮王院(斑鳩の宮)の地を訪れた行信は、そのあまりに荒れ果てた様に涙を流し、皇太子の阿倍内親王に奏上して、上宮王院を復興を図ったのが東院であるという。しかし、八角円堂は故人をしのぶ廟堂である。ということは、行信が意図したのは、単なる斑鳩の宮の再現ではなく、聖徳太子の御霊屋(おたまや)の建設だった。夢殿の屋上に掲げられた露盤と宝殊は、この建物が太子の廟であることを明確に示している。 夢殿の中には、八角形の須弥壇状の厨子が置かれている。厨子の中には、聖徳太子の等身像といわれる国宝の救世(ぐぜ)観音像が安置してある。樟の一木造りの像は179cmと長身だ。本当に実物をモデルに造像したのであれば、聖徳太子は当時としてはかなり長身の男性だったことになる。像形は、左右対称、面長な顔、杏仁形の目、それに唇に浮かべたアルカイックスマイルなど、止利様式の特色をそのまま備えている。法隆寺では白布に巻いて長年秘仏として扱ってきた。米人フェノロサと岡倉天心が白布がとりのぞいて像の全容を明らかにしたのは、明治も半ばの1884年のことである。
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上宮王家滅亡の舞台となった宮『日本書紀』によれば、聖徳太子は601年(推古9)2月に斑鳩の宮の造営に着手した。この新しい宮の造営には4年半もかかっている。20年間も住み慣れた上宮(かみつみや)を離れて一族ともども斑鳩の宮に移ったのは、605年(推古13)10月である。そして622年(推古30)2月22、49才で逝去するまで17年間をその宮で過ごした。聖徳太子の薨去後、斑鳩の宮は長男の山背大兄(やましろのおおえ)皇子に伝領された。それから21年後、宮は上宮王家滅亡の舞台となる。 643年(皇極2)11月、蘇我入鹿(そがのいるか)は、巨勢徳太(こせのとこだ)と土師娑婆(はじのさば)に命じて斑鳩の宮を急襲させた。山背大兄王らは数十人の側近者と防戦したが、勝算のないのを悟ると、馬の骨を寝殿に投げ込み生駒山中に逃れた。巨勢徳太は宮に焼き払い、灰の中から骨を見つける山背大兄は死んだ思い、囲いを解いて退去した。皇子たちは5日ほど生駒山中に隠れていたが、山から出て斑鳩寺に入ると、そこで自決して果てた。『上宮聖徳法王帝説』によれば、このとき山背大兄王と子女および同母弟とその子女合わせて15人が亡くなったという。 |
聖徳太子が斑鳩の宮の造営を思い立った背景聖徳太子には、父の用明天皇が造営してくれた上宮(かみつみや)が存在していた。20年間も住んで古くなったとか、手狭になったのであれば、そこで建物を新築したり増改築すればすむことである。にもかかわらず、飛鳥から18kmの離れた遠方の地に新しい宮を造営して、そこに住むことにした。推古天皇に託されて内政・外交のすべてを総見する最高責任者の立場にあったことを考えれば、この遷宮の意味がよく分からない。 遷宮の理由について、いろんな推測がなされている。その一つに叔父にあたる蘇我馬子(そがのうまこ)との不和説がある。大臣(おおおみ)の位にあった馬子は、政界における最大のライバルだった物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、今やその権勢は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。キングメーカとしても隠然たる勢力をもつ大政治家である。その馬子の方針に若い聖徳太子が逆らったため、飛鳥の地に居づらくなったためであろう、と推測されている。 しかし、この推測は的はずれである。聖徳太子が斑鳩の宮の造営を開始してから数年間、『日本書紀』の記述を信用するならば、太子の活躍が一番目立った時期である。新羅征討軍の派遣、冠位十二階の制定、憲法17条の公布など、為政者としての外交と内政の両面で輝かしい実績はこの時期のものである。 斑鳩の宮造営の謎を解くキーワードは、4年半も要した工事期間にあると思う。最高の執政官の立場にあるとはいえ、一王族の私的な居所を新築したにしては長すぎる。しかも、発掘調査の結果は、王族の宮居の規模を遙かに越える規模であったことを証明している。聖徳太子がこの地に築いたのは、同時期に造営中の推古天皇の宮殿である小墾田の宮に匹敵する宮居だったに違いない。 さらに想像をたくましくすれば、その発端となったのは600年に派遣されたとされる遣隋使節の帰朝報告であったと思われる。使節を派遣した時期も使節の名前も派遣の目的も、『日本書紀』には記されていない。だが我が国からの使節が隋の都・太興城にやってきて皇祖文帝に謁見した事実は『隋書』に記録されている。広大な領土を何百年ぶりで統一し律令国家として発展の一途にある隋の国情を聞いた聖徳太子や馬子は、新しい国造りの必要性を痛感したと思われる。新生国家の構想を練り、人材を養成し、新しい試みを始める場所として、彼らは大和川の河畔を選んだ。大和川は当時、難波と大和を結ぶ交通の大動脈だった。 |