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【所在】奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺南 |
聖徳太子が最愛の妃・膳大郎女とともに晩年を過ごした飽波葦垣宮平成3年、斑鳩町教育委員会は法隆寺南にある上宮(かみや)遺跡の発掘調査を行い、奈良時代の大型掘立柱建物群を発見した。また、平城京で使われたものと同じ軒瓦も多数発掘した。その発掘跡は現在上宮遺跡歴史公園として整備されている。その歴史公園の南に、今は廃墟と化した成福寺(じょうふくじ)がある。成福寺の周辺は、『大安寺伽藍縁起』に見える飽波葦垣宮の伝承地である。『大安寺資財帳』や『聖徳太子伝私記』は、聖徳太子が膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)とともに晩年をこの宮に過ごしたと伝える。 法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘文は、622年(推古30)正月22日に聖徳太子とと膳大郎女が病気にかかり、一ヶ月後の2月21日まず膳大郎女が亡くなり、翌日の22日に聖徳太子も亡くなった、と記している。二人の亡骸は2ヶ月前に亡くなった聖徳太子の母・穴穂部間人王后とともに、磯長(しなが)陵に葬に葬られた。磯長陵は聖徳太子廟として、大阪府南河内郡太子町の叡福寺の境内に祀られている。
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斑鳩宮一帯は聖徳太子のコロニーだった?当時の氏族社会では、身分の上下を問わず妻問い婚が一般的な結婚様式だった。妻問い婚は、夫婦が一緒の家に暮らすのではなく、夫が妻のいる実家に通うという習慣であり、子はその母方の家で養育されるのが通常であった。その特徴は、身柄や生活の根拠が各自の氏族にあり、夫は妻方に通ったり滞在したりが、その結合は弱く、離合が容易である点にある。つまり氏族が生活組織の単位であって夫婦関係はいわば恋愛である。ここでは夫婦関係は容易に「床去り」「夜離れ」ができるし、女の側でも男を「門からかえす」とそれで簡単に離婚が成立する事情にあった。
ところが、聖徳太子が生活の空間を斑鳩の宮に移すにあたって、まったく新しい家族観念を持ち込んだと考えられる。当時、聖徳太子には複数の妃が居たが、いずれの妃も実家を離れて斑鳩宮の近辺に住むようにした。すなわち、斑鳩宮を中心として、コロニーを形勢したのである。当時の一般通念とかけ離れた生活様式に、周囲の人々は驚きととまどいを感じたであろうことは十分予想できる。 聖徳太子の最初の妃は、敏達天皇と推古天皇との間に生まれた菟道貝鮹(うじのかいだこ)皇女だった。彼女との間には子供もなく、どこに住まわせたのかも分からない。斑鳩宮に遷った頃にはおそらく物故していたものと推察されている。聖徳太子は蘇我の馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)も妃にしていた。蘇我の蝦夷(えみし)の姉妹である。彼女との結婚は早い時期に行われたと思われ、岡本宮に住まわせたと思われる。岡本宮は後に法起寺に改築される建物である。聖徳太子が最も愛した妃とされている膳(かしわで)の菩岐々美郎女(おききみのいらつめ)すなわち膳大郎女は、飽波葦垣宮に住んだ。推古天皇の孫娘・位奈部橘王(いなべのたちばなのおおきみ)は、聖徳太子が晩年に妃を迎えた女性とされている。聖徳太子は位奈部橘王を母の穴穂部間人皇女と一緒に中宮寺の前身の建物に住まわせたと思われる。 |