用明天皇陵(ようめいてんのうりょう)

ああああ
用明天皇の河内磯長原陵(かうちのしながのはらのみささぎ)

【陵名】河内磯長原陵、春日向山古墳
【所在】大阪府南河内郡太子町春日
【墳形】方墳
【規模】東西65m、南北60m、高さ10mの方墳で、周囲には幅7mの空濠を巡らす。
【アクセス】近鉄南大阪線「上ノ太子」駅から南東へ3.1km


用明天皇略記

【別名】橘豊日(たちばなのとよひ)皇子、大兄(おおえ)皇子
【在位】敏達14年(585)9月5日〜用明2年(587)4月9日
【皇居】磐余池辺双槻宮 (いわれのいけのべのなみつきのみや、奈良県桜井市阿倍)
【系図】欽明天皇の第四子。欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)との間に生まれた七男六女の中の第一子。第四子には、後に推古天皇となる炊屋姫(かしきやひめ)がいる。なお、堅塩媛の妹・小姉君(おあねのきみ)も欽明天皇に嫁ぎ、四男1女を生んでいる。その第三子が穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)で、用明天皇に嫁ぎ聖徳太子を生んでいる。
【配偶者】皇后・穴穂部間人(あなほべはしひと)皇女、嬪・蘇我稲目の娘・石寸名(いしきな)、葛城直磐村の娘・弘子
【皇子女】皇后・穴穂部間人皇女との間に四男(聖徳太子(聖徳太子)、来目(くめ)皇子、殖栗(えぐり)皇子、茨田(まんだ)皇子)、石寸名との間に一男(田目皇子)、弘子との間に一男一女(麻呂子皇子、酢香手姫皇女)


短命だった聖徳太子の父

 用明天皇は、聖徳太子の実の父である。本名を橘豊日皇子といった。異母妹の穴穂部間人皇女と結婚し、初めて生まれた子が聖徳太子である。敏達天皇亡き後、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)や蘇我の馬子の推挽を受けて、用明天皇として即位し、磐余(いわれ)の池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)を宮とした。しかし、1年半後、新嘗の大祭のとき病気で倒れ、わずか一週間で他界してしまう。

 『日本書紀』によれば、587年4月9日に池辺双槻宮で薨去した遺体は殯の宮に安置され、その年の7月に磐余の池上陵に葬られた。その後、593年(推古元)に「河内の磯長の陵」に改めて葬ったと記録されている。天皇陵としては最初の方形墳で、古墳時代後期の方墳としては、推古天皇陵とともに石舞台を上回る規模を有する。

 用明天皇は聖徳太子をことのほか慈しみ、わざわざ宮の南に宮を造ってそこに住まわせたと伝える。それが上宮(かみつみや)(上之宮遺跡を参照)である。若くして父帝を失ったことは、その後の聖徳太子の人生を考えれば大きな曲がり角だった。父がせめて後10年も存命であってくれれば、聖徳天皇が実現した可能性は十分にある。しかし、14才で父を失った太子には波乱の人生がまっていた。太子が正史の表舞台に登場するのは、用明天皇を池上陵に葬った直後の守屋討伐戦からである。


用明天皇の死因に疑問あり

 公式な記録では、用明天皇の死は上記のように病死となっているが、その死因に疑問を投げかける説もある。敏達天皇崩御後の有力な後継者候補として3人の人物がいた。まず、敏達天皇の先の皇后の長子である押坂(おしさか)の彦人皇子である。敏達天皇の朝政に参与したこともあり、群臣たちから一目おかれていたが、残念ながら母方の氏族が非力だった。次は、蘇我の稲目が妃として入内させた堅塩姫と欽明天皇との間に生まれた橘豊日皇子である。そしてもう一人は、堅塩姫の同母妹でやはり妃として入内した小姉君(おあねのきみ)と欽明天皇の間に生まれた男子で、聖徳太子の母の弟でもある穴穂部皇子でる。

 問題はこの穴穂部皇子である。武人的な性格である上に、皇位に対して異常な野心を抱いていた。加えて、仏教の受容をめぐって廃仏派の立場を表明している軍事氏族の物部守屋や祭祀氏族の中臣勝海などが、蘇我馬子に対抗して穴穂部皇子擁立にまわった。当時の皇位継承は、群臣たちの推挽を前提とした。また、皇后の発言力も大きな影響があった。この後継者選びでは、皇后の豊御食炊屋姫が馬子と組んで、実兄の橘豊日皇子を推した。

 この後継者選びでは、穴穂部皇子は次期天皇に擁立されなかった。その結果、今流にいうならば”キレ”たのだと思う。用明天皇の即位から半年後の586年5月、敏達天皇の殯の宮に押し入って、堅塩姫を犯そうとした。彼女との関係を持つことで次の後継者選びを有利にしようと考えたのかも知れない。しかし、敏達天皇の寵臣で殯の宮の護衛していた三輪逆(さかう)に阻止されて、目的を果たせなかった。そのため逆を逆恨みした皇子は、蘇我馬子と物部守屋から逆を殺害する許可を取り付けた。このことを、『日本書紀』は「穴穂部皇子には、ひそかに天下に王たらんことを企てて、口実を設けて逆を殺そうという下心があった」と記している。

 身の危険を感じた三輪逆は、磐余の池辺雙槻の宮に身を寄せた。そこを物部守屋と穴穂部皇子は取り囲んだ。『日本書紀』は三輪逆が宮を抜け出し本拠地の三輪山に逃れたので、皇子は守屋に追撃させて逆を惨殺させたと伝える。注記には、このとき穴穂部皇子が自ら赴き射殺したとする伝承も伝えている。

 問題は、逆が身を隠した用明天皇の宮を穴穂部皇子が物部守屋とともに取り囲んだことである。仮にも天皇の居所である。加えて、攻め手は半年前に皇位を争った当事者であり、彼を後押しした軍事氏族の長である。宮を護る守備兵と彼らとの間に軍事的な小競り合いがあったと見るのが自然である。双方からの矢を応酬ぐらいはあったであろう。用明天皇の死に疑問を抱く説では、このとき天皇が流れ矢に当たって負傷したのではと勘ぐる。その理由の一つは、翌年の4月に行われた新嘗大祭で天皇が病気で倒れられたと史書が伝えていることである。

 新嘗祭は、古くから天皇がその年に収穫された新穀や新酒を天照大神をはじめとする天地の神に供え、農作物の恵みに感謝し、自らも食す儀式である。後の律令制度では、11月の2番目の卯の日に新嘗祭を行うことに制度化された。天皇が即位した最初の新嘗祭は、大嘗祭と呼び天皇の即位を天下に知らしめる重要な儀式である。その儀式がこの年の秋に行われず、翌年の4月という中途半端な時期に挙行されたのは、天皇の身にその実施を妨げる何か不祥事があったと見なされても何の不思議もない。


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