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【所在】奈良県橿原市五条野町字植山 |
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植山古墳は近鉄吉野線「岡」駅から徒歩でおよそ15分ほどの距離にある。駅から東へ延びる県道155号線を行くと、「五条野町」という交差点にでる。そこを左折して新興住宅街の中の道を進むと、下りの坂道の左手に、杉の木立が頂上に林立する小山が見えてくる。春日神社である。神社の境内に登ると、一段低くなった脇に正楽寺の墓地がある。2000年、橿原市教委はその墓地の裏側で、長方形の墳丘に巨大な横穴式石室が2基ある双室墳を発掘した。それが植山古墳である。推古天皇とその子の竹田皇子を埋葬した墓としてメデイアで大きく取り上げられ話題となった。2002年には史跡として保存されることが決定した。2003年2月現在、保存作業の最中で、古墳は青いシートをかぶっている。 |
推古天皇の亡骸は最初竹田皇子の陵に追葬された推古天皇陵のページで示したように、我が国最初の女帝である推古天皇は、西暦628年3月7日、75才でこの世を去った。彼女は崩御する前に次のような遺言を残したことが、『日本書紀』に記されている。すなわち、「この頃は五穀が実らず、百姓はおおいに飢えている。私のために陵を建てて厚く葬ってはならぬ。ただ竹田皇子の陵に葬れば、それでよろしい」というものである。群臣たちは遺言に従って、殯(もがり)が明けた9月24日、竹田皇子が埋葬されている大野の丘の上の陵に、推古天皇の亡骸を葬った。『古事記』には、後に科長(しなが)の大陵、すなわち現在の推古天皇陵に改葬したと記している。 『日本書紀』は竹田皇子の死亡時期を記述していない。587年7月、蘇我の馬子が政敵である物部の守屋を倒すために組織した討伐軍の中に、王族の一人として竹田皇子の名がある。年齢的には聖徳太子とほぼ同年代だと思われるが、その後の竹田皇子の事績について記した史書はない。590年代には、病気か何かで死亡したのではないかと想像されている。推古天皇が登極した592年頃まだ生存していれば、あるいは皇位に推挙されたかもしれないが、『日本書紀』はそうした様子をうかがわせない。 |
植山古墳に竹田皇子と推古天皇を埋葬したことがあるか?2000年(平成12)8月26と27日の両日、橿原市教育委員会は、発掘された植山古墳の現地説明会をおこなった。そのとき配布した資料によれば、植山古墳の墳形は長方形墳であり、さらに一つの墳丘に二つの石室を有する「双室墳(そうしつふん)」または「双室墓(そうしつぼ)」と呼ばれる特異な古墳であるという。類例が少ない古墳形式で、推古朝前後く6世紀末〜7世紀前半)にしか造られていないとのことだ。その結果、俄然注目されたのが上記の推古天皇の遺言であり、竹田皇子と推古天皇を埋葬した陵であることは先ず間違いない、とされている。 だが、こうした推測に疑問をはさむ声がない訳ではない。推古天皇の遺言は、最愛の息子だった竹田皇子が埋葬されている陵に、亡骸を合葬せよとのことだった。通常の理解では、女帝の希望は、黄泉の国では竹田皇子と同じ墓の中で、枕を並べて眠ることを希望したように受け取れる。不作続きで人々が疲弊している時期でもあり、新たに墓の造営工事を始めて、彼らを苦しめることなど絶対にしてくれるな、と悲痛な声で呼びかけている。時の為政者が女帝の遺言を遵守したならば、彼女の遺骸は竹田皇子の遺骸が安置されている”同じ石室に追葬”したはずである。遺言に背いてまで、別に石室を造り、そこに埋葬するような余計な手間をわざわざかけたであろうか。だが、”墓誌”でも出土しないかぎり、被葬者は特定されない。これが考古学の現状のようだ。 |