天王山古墳(てんのうざんこふん)

ああああ
天王山古墳がある丘の遠望


【所在】
桜井市倉橋字赤坂2464
【墳形&規模】
一辺45m、三段築成の大型方墳
【築造時期】
6世紀末
【アクセス】
JR・近鉄線桜井駅から菟田野町行きバス、「下尾口」(さがりおぐち)バス停で下車、倉橋溜池に向かって南へ徒歩約200m


近畿地方における後期の代表的な方墳

天王山1号墳
天王山1号墳の開口部分
 バス停「下尾口」でバスを降りと、そこは国道166号線の交差点である。倉橋溜池方面へ続く道の先に集落が見える。その道を進み集落を抜けると、坂道を登りきったあたりで、右手に小山が見えてくる。樹木に覆われた、1基の大型古墳を思わせるような小山であるが、実は2基の方墳と3基の円墳がその上に築かれている。

田圃のあぜ道を伝って小山の右手に入って行くと、天王山第1号墳が横穴式石室を南に開口しているのが見えてくる。羨道部入り口付近は土砂で埋まっている。しかし、かがめば、中に入ることができる。この天王山1号墳は近畿地方の代表的な後期方墳であり、築造時期は6世紀末と推定されている。1964年に史跡に指定された。

 石室は全長15mの長大な横穴式石室である。花崗岩の巨石を積み上げて築かれている。両袖式の玄室は、長さ6.3m、幅3m、高さ4.3m。その中に高さ1,2mの二上山白石製の刳抜式家形石棺が収められている。


真の崇峻天皇陵の有力な候補

 第32代崇峻天皇は治世5年目の592年11月3日、蘇我の馬子に疎まれて、東国からの貢ぎ物を献上する儀式の最中に東漢直(やまとのあやのあたい)駒によって殺された。その日のうちに、天皇の亡骸は倉梯岡陵(現在の奈良県桜井市倉橋)に葬ったと、『日本書紀』は記す。その比定地は、現在宮内庁によって管理されている。

 この比定地は以前から疑問が持たれていた。蒲生君平は『山陵志』のなかで、倉梯岡陵は寿陵ではないか、さもなければその日のうちに葬送が行われるはずがない」といっている。しかし、寿陵を築いていたとする史料はない。しかも、この陵墓は崇峻天皇の倉梯芝垣宮(くらはししばがきのみや)の跡地とされる金福寺と、細い路地を隔てて並んでいる。たとえ寿陵を造ったとして、自分の宮所と目と鼻の先に墓地を築くとはとうてい思えない。

倉梯岡陵
崇峻天皇の倉梯岡陵
 崇峻天皇陵の前後に造営された用明天皇陵推古天皇陵は、現在、王陵の谷とされる太子町に比定地がある。いずれも大型の方墳である。蘇我馬子の桃原墓とされる石舞台古墳も大型の方墳であったとされている。これらの古墳を比べてみると、この時代は天皇やそれに匹敵する族長の墓は大型方墳として造営するのが流行だったと言えなくもない。そこで注目されるのが、この倉梯で最大の方墳である天王山古墳である。暗殺されたその日、天皇の亡骸はとりあえず宮の近くに仮埋葬したが、仮にも天皇である。後日、天皇山に陵墓を造営して、そこへ改葬したと考えても築造時期にも矛盾はない。

 罪人にも等しい処罰を受けた天皇の遺骸を、権勢並ぶ者無き蘇我馬子の機嫌を損ねることなく改葬できるような人物が、当時いたであろうか。いたとすれば、聖徳太子をおいて他にない。なお、改葬先を天王山古墳ではなく、藤ノ木古墳だとする説もある。可能性としては否定できない。


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