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【陵名】聖徳太子御廟、叡福寺北古墳 |
聖徳太子略記
【摂政】推古天皇元年(592)4月10日〜推古天皇29年(621)2月5日(法隆寺系の釈迦像銘や天寿国繍帳では、推古30年(622)2月22日としている。) |
「上の太子」として親しまれる叡福寺で祀られる聖徳太子廟大阪府南河内郡太子町には、聖徳太子御廟とされる磯長廟(しながびょう、円墳)を守るために建てられた叡福寺がある。創建以来多くの貴顕の尊崇を集め、八尾の勝軍寺が「下ノ太子」、 羽曳野市の野中寺(やちゅうじ)が「中ノ太子」と呼ばれるのに対して、「上ノ太子」として親しまれている。寺伝によれば、聖徳太子と妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)、穴穂部間人(あなほべのはしひと)王后の三人をこの廟に合葬したとき、推古天皇より方六町の地を賜り、御廟守護のために僧坊十姻(墓守の家10軒)を建てたのが、寺の始まりであるという。そして、聖徳太子の追福のために聖武天皇の勅願によって、724年(神亀元)に伽藍が創建されたと伝える。だが、伽藍が整備されたのは平安後期とされている。 聖徳太子御廟は叡福寺境内の北側にあり、磯長山の丘陵を利用した円墳である。考古学では「叡福寺北古墳」と呼んでいる。墳丘の高さは7.2m、直径は54.3m、内部は横穴式石室である。石室は切石積みで、全長は13m、玄室は長さ5.4m、巾と高さはそれぞれ3mである。築造時期は7世紀前半から中頃とされ、寺の伝承と矛盾しない。宮内庁は改修後に大石を用いて羨道をふさいでしまったので、現在は内部を見ることはできない。だが、叡福寺に伝えられる「聖徳太子御廟窟絵記文」には、窟内玄室の三棺配置図があり、宝物館で見ることが出来る。 |
二つの異なる薨日伝承を持つ聖徳太子聖徳太子は晩年を飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)で過ごし、そこで亡くなったとされる。ところが、皇子の死亡年月日が『日本書紀』と法隆寺系史料では異なっている。 『日本書紀』は次のように記している。「推古29年(621)春2月5日、夜半、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で薨去された。このとき、諸王、諸臣および天下の人民は、老いたるものは愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえ分からぬ程であった。若き者は慈父慈母を失ったように、泣き叫ぶ声はちまたに溢れた。農夫は耕すことも休み、稲つく女は杵音(きねおと)もさせなかった。皆が言った、「日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらよいのだろう」と。この月、太子を磯長(しなが)陵に葬った。」 だが、法隆寺に伝わる伝承は異なる。法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背には、次のような意味の銘文が刻まれている。「推古29年(621)12月に、穴穂部間人王后が崩じ、明年(推古30年、622)正月22日上宮法皇と膳部大郎女が病気となった。そこで、王后・王子と諸臣らが病気回復を祈って釈像尺寸王身を発願したが、2月21日に膳部大郎女が亡くなり、翌日(2月22日)法皇もなくなった。云々」 聖徳太子の死は、現代であれば、それこそ号外が発行され、テレビでは臨時ニュースとして報道されるほど大事件だったであろう。しかも、『日本書紀』が編纂されるわずか100年前の出来事にすぎない。聖徳太子ほど当時から著名な人物の薨日に異伝があることは、一つ謎とされるである。現在では、なぜか『日本書紀』よりも法隆寺系史料の伝承のほうが信用されている。 |