聖徳太子廟(しょうとくたいしびょう)

叡福寺境内の聖徳太子廟
叡福寺境内の聖徳太子廟

【陵名】聖徳太子御廟、叡福寺北古墳
【所在】大阪府南河内郡太子町太子2146
【墳形】円墳
【規模】高さ7.2m、直径54.3m
【アクセス】近鉄長野線「喜志」から金剛バス「上ノ太子」行きに乗車、バス停「太子前」で下車。


聖徳太子略記

【摂政】推古天皇元年(592)4月10日〜推古天皇29年(621)2月5日(法隆寺系の釈迦像銘や天寿国繍帳では、推古30年(622)2月22日としている。)
【宮居】上宮(かみつみや、奈良県桜井市)、斑鳩宮(いかるがのみや、奈良県斑鳩町)
【系図】用明天皇と皇后・穴穂部間人(あなほべはしひと)皇女との間に生まれた第1子。同母弟:来目(くめ)皇子、殖栗(えぐり)皇子、茨田(まんだ)皇子、同母妹:佐富(さほ)女王、異母兄:田目(ため)皇子、異母弟:当麻(たぎま)皇子、異母妹:酢香手姫(すかてひめ)皇女
【配偶者】推古天皇の娘・莵道貝鮹(うじのかいだこ)皇女、膳臣傾子(かしわでのおみかたぶこ)の娘・菩岐々郎女(ほききみのいらつめ、膳部大郎女とも呼ばれた)、蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)、尾張皇子の娘・位奈部橘王(いなべのたちばなのおおきみ)
【皇子女】菩岐々郎女所生:舂米(つきしね)女王、長谷(はせべ)王、久波太(くわた)女王、波止利(はとり)女王、三枝(さえぐさ)王、伊止志古(いとしこ)王、麻呂古(まろこ)王、馬屋古(うまやこ)女王、刀自古郎女所生:山背大兄(やましろのおおえ)王、財(たから)王、日置(ひき)王、片岡女王、位奈部橘王所生:白髪部(しらかべ)王、手島(てしま)女王


「上の太子」として親しまれる叡福寺で祀られる聖徳太子廟

 大阪府南河内郡太子町には、聖徳太子御廟とされる磯長廟(しながびょう、円墳)を守るために建てられた叡福寺がある。創建以来多くの貴顕の尊崇を集め、八尾の勝軍寺が「下ノ太子」、 羽曳野市の野中寺(やちゅうじ)が「中ノ太子」と呼ばれるのに対して、「上ノ太子」として親しまれている。寺伝によれば、聖徳太子と妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)、穴穂部間人(あなほべのはしひと)王后の三人をこの廟に合葬したとき、推古天皇より方六町の地を賜り、御廟守護のために僧坊十姻(墓守の家10軒)を建てたのが、寺の始まりであるという。そして、聖徳太子の追福のために聖武天皇の勅願によって、724年(神亀元)に伽藍が創建されたと伝える。だが、伽藍が整備されたのは平安後期とされている。

   聖徳太子御廟は叡福寺境内の北側にあり、磯長山の丘陵を利用した円墳である。考古学では「叡福寺北古墳」と呼んでいる。墳丘の高さは7.2m、直径は54.3m、内部は横穴式石室である。石室は切石積みで、全長は13m、玄室は長さ5.4m、巾と高さはそれぞれ3mである。築造時期は7世紀前半から中頃とされ、寺の伝承と矛盾しない。宮内庁は改修後に大石を用いて羨道をふさいでしまったので、現在は内部を見ることはできない。だが、叡福寺に伝えられる「聖徳太子御廟窟絵記文」には、窟内玄室の三棺配置図があり、宝物館で見ることが出来る。


二つの異なる薨日伝承を持つ聖徳太子

 聖徳太子は晩年を飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)で過ごし、そこで亡くなったとされる。ところが、皇子の死亡年月日が『日本書紀』と法隆寺系史料では異なっている。

 『日本書紀』は次のように記している。「推古29年(621)春2月5日、夜半、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で薨去された。このとき、諸王、諸臣および天下の人民は、老いたるものは愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえ分からぬ程であった。若き者は慈父慈母を失ったように、泣き叫ぶ声はちまたに溢れた。農夫は耕すことも休み、稲つく女は杵音(きねおと)もさせなかった。皆が言った、「日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらよいのだろう」と。この月、太子を磯長(しなが)陵に葬った。」

 だが、法隆寺に伝わる伝承は異なる。法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背には、次のような意味の銘文が刻まれている。「推古29年(621)12月に、穴穂部間人王后が崩じ、明年(推古30年、622)正月22日上宮法皇と膳部大郎女が病気となった。そこで、王后・王子と諸臣らが病気回復を祈って釈像尺寸王身を発願したが、2月21日に膳部大郎女が亡くなり、翌日(2月22日)法皇もなくなった。云々」

 聖徳太子の死は、現代であれば、それこそ号外が発行され、テレビでは臨時ニュースとして報道されるほど大事件だったであろう。しかも、『日本書紀』が編纂されるわずか100年前の出来事にすぎない。聖徳太子ほど当時から著名な人物の薨日に異伝があることは、一つ謎とされるである。現在では、なぜか『日本書紀』よりも法隆寺系史料の伝承のほうが信用されている。



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