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【陵名】倉梯岡上陵 (くらはしのおかのえのみささぎ) |
崇峻天皇略記
【別名】長谷部若雀( はつせべのわかさざき)尊、泊瀬部(はつせべ )皇子 |
蘇我/物部決戦の後に推挙された天皇泊瀬部皇子(はつせべのみこ)は587年(用明2)秋8月2日、敏達天皇の皇后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)や蘇我馬子(そがのうまこ)らに擁立されて皇位についた。第32代・崇峻天皇の誕生である。即位する前に、泊瀬部皇子河内平野で繰り広げられた蘇我/物部決戦に参加している。この戦いで大臣の蘇我馬子が大連の物部守屋(もののべのもりや)を攻め殺した。皇子が即位できたのは、皇族の最年長皇子として蘇我馬子の軍に加担した論功行賞の意味合いが強い。 事の発端はこうである。その年の4月9日、聖徳太子の父である用明天皇が磐余池辺雙槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)で崩御された。当然のことながら皇位継承者選びが政界を揺るがした。大連の任にあった物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を推した。だがこの皇子はかなりの粗暴な男だったようである。以前に敏達天皇の殯宮(もがりのみや)に押し入って炊屋姫を犯そうとしたことがある。幸い天皇の寵臣だった三輪君逆(みわのきみさかう)の働きで事なきを得たが、今度はその寵臣を恨み射殺してしまった。このような経緯から、炊屋姫は穴穂部皇子の排除を命じ、蘇我馬子らは炊屋姫を奉じて、皇子を殺してしまった。そのため、身の危険を感じた物部守屋は渋河(現在の八尾市)の別宅に引きこもり防備を固めた。 しかし、蘇我馬子はこの時を政敵を葬り去る絶好の機会と捕らえ、諸皇子と群臣たちに守屋討伐を呼びかけた。馬子の呼びかけに、ほとんどの皇子や群臣が呼応し、一行は軍勢を率いて守屋を渋河の別宅に襲い、物部本宗家を滅ぼした。『日本書紀』は用明天皇2年(587)秋7月のこととして、この時の物部側の壮絶な戦いの様を記録している。 |
傀儡天皇の哀れな末路用明天皇の後継者として適任者がいなかった訳ではない。敏達天皇のの第一皇子だった押坂彦人大兄皇子 (おしさかのひこひとのおおえのみこ) は健在だった。物部守屋たちによって、穴穂部皇子の対立候補として呪詛されたほどの有力候補だった。ただ、惜しいことに母方の息長氏が当時の政界では有力な氏族ではなかった。さらに蘇我氏は同族の血を引く皇子たちの皇位継承が政権維持の基本であると見なしていた。候補者としては炊屋姫の長子である竹田皇子や用明天皇の長子である聖徳太子がいたが、いずれも10代半ばの少年たちであった。こうしたことから、蘇我の血を引く年長者であることだけが理由で、泊瀬部皇子が皇位に就くことになった。 第32代・崇峻天皇として即位した泊瀬部皇子は、即位した月に宮を倉梯(くらはし)に造った。倉梯柴垣宮(くらはししばがきのみや)という。倉橋の集落は、現在の桜井市から談山神社にむかう山間の奥まった土地である。御破裂山(607.7m)と音羽山(851.7m)の山裾が左右から次第に迫ってきて、その先はもう平地がないと思われるほど奥まったところにある。本人の住まいをそのまま宮処と定めたのか、馬子らによって山間の地に押し込まれたのは分からない。いずれにしても、自分が中継ぎの天皇であり、馬子たちの傀儡であることは、天皇自身も自覚していたであろう。天皇の業績として唯一記録されている出来事といえば、治世4年目に任那(みまな)再建を群臣に謀り、二万の軍勢を筑紫に出兵させたことぐらいである。 592年(崇峻5)冬10月4日、イノシシを献上する者があった。天皇はそのイノシシを指さして、「いつの日かこのイノシシの首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と漏らされた。それから6日後、蘇我馬子がこれをもれ聞き、天皇が自分を嫌っていると警戒し、さらに一族のものに天皇を弑殺することを謀った。そして11月3日、東国の調を進めると偽って天皇を儀式の庭に臨席させ、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って天皇を弑殺させてしまった。『日本書紀』は、その日のうちに天皇の遺骸を倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬ったと伝える。延喜諸陵式には、陵地・陵戸なしと記している。崩御したその日に葬ったこと、陵地・陵戸がないことは前後に例がない。なお、現在の陵とは細い路地を隔てた場所に、金福寺という寺がある。その寺が生前に天皇が起居した倉梯柴垣宮の跡であるという。 |