推古天皇陵(すいこてんのうりょう)

磯長山田陵
推古天皇の磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)

【陵名】、山田高塚古墳
【所在】大阪府南河内郡太子町山田
【墳形】3段築成の方墳
【規模】東西61m、南北55m、高さ12m。周囲に幅7mの空濠を巡らす。
【アクセス】近鉄南大阪線「上ノ太子」駅から南へ3.9km


推古天皇略記

【別名】豊御食炊屋姫 (とよみけかしきやひめ)尊、額田部(ぬかたべ)皇女
【在位】崇峻天皇5(592)年12月8日〜推古天皇36年(628)年3月7日
【皇居】豊浦宮(とゆらのみや、奈良県高市郡明日香村)、小墾田宮(おはりだのみや、奈良県高市郡明日香村 )
【系図】欽明天皇と妃・蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)の間に生まれた七男六女の第四子。兄弟姉妹(1.大兄皇子(のちの用明天皇)、2.磐隈(いわくま)皇女、 3.アトリ皇子、5.椀子(まろこ)皇子、6.大宅(おおやけ)皇女、7.石上部皇子、8.山背皇子、9.大伴皇女、10.桜井皇子、11.肩野皇女、12.橘本稚(たちばなのもとのわか)皇子、13.舎人(とねり)皇女)
【配偶者】欽明天皇
【皇子女】1.莵道貝鮹(うじのかいだこ)皇女(莵道磯津貝皇女、後に聖徳太子の妃になる)、2.竹田(たけだ)皇子、3.小墾田(おわりだ)皇女(後に、彦人大兄皇子に嫁ぐ)、4.ウ守皇女(軽守皇女)、5.尾張(おわり)皇子、6.田眼(ため)皇女(田村皇子(後の舒明天皇)に嫁ぐ)、7.桜井弓張(さくらいのゆみはり)皇女


我が子・竹田皇子とともに我が国最初の女帝が眠る墓

 第33代・推古天皇が我が国初の女性天皇として登極したのは、592年12月である。その一ヶ月前の11月3日、蘇我の馬子の腹心である東漢(やまとのあや)の駒という人物に、崇峻天皇が倉梯の宮で殺されるという大事件が発生した。東国からの貢ぎ物を献上する儀式の最中だったという。『日本書紀』の叙述が正しければ、崇峻天皇は、5年前の587年に最大の政敵である物部の守屋(もりや)を葬り去った蘇我の馬子(うまこ)が、傀儡の王として擁立した人物である。だが、在位5年にもなると、臣下に操られる己の立場に我慢ができなくなったのであろう。馬子憎しと思う気持ちがその言動に表れ、逆に先手を打たれて馬子が放った刺客によって群臣たちの目の前で刺殺されてしまった。

 天皇が臣下によって刺殺されることなど、今までなかった不祥事である。大和朝廷が大いに動揺したであろうことは十分想像できる。そうした混乱を収拾するために為政者が取る施策は、いくつかある。たとえば、対外戦争を起こして人民の関心を外に向けさせるなどは典型的な手法である。だが、『日本書紀』の編者からも「その性格は武略備わり、政務にすぐれ、仏法を敬った」と高い評価を受けた蘇我の馬子は、誰も予想だにしない策を打ち出した。敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)を登極させたのである。

植山古墳
推古天皇を最初埋葬した植山古墳
  皇位を引き受けるに当たって、群臣たちの懇願を炊屋姫は何度も辞退したという。だが、それは中国史書の筆法をまねた『日本書紀』編者の作文であろう。叔父にあたる馬子の強い要求を受けざるを得なかったものと推察される。炊屋姫は当然いくつかの条件をつけたと思われる。その一つは天皇不執政で、国の祭祀は彼女が主催するが、内政・外交といった政治には一切関わらない、その代わり聖徳太子に政治の一切を委ねる故、馬子も皇子を輔けよというものだったと推測される。あるいは、次期天皇に我が子の竹田皇子を推挽することも条件の中にあったかもしれない。

 とにかく、こうして我が国初の女帝が登場した。彼女の在位は36年の長きにわたる。だが、聖徳太子の在世中は、彼女の事績として語られるような叙述が『日本書紀』にはほとんどない。西暦628年3月7日、推古天皇は75才でこの世を去った。豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)と諡(おくりな)された。殯宮(もがりのみや)は朝廷の中庭に置かれた。喪礼はその年の9月20日に行われた。生前の遺言に従って、遺骸は9月24日、竹田皇子(たけだのみこ)が眠る陵に葬られた。その陵は最近発掘された奈良県明日香村の植山古墳とされている。後に、母子の遺骸は現在の「河内国磯長山田陵」に改葬された。改葬の時期は不明である。



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