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【陵名】、山田高塚古墳 |
推古天皇略記
【別名】豊御食炊屋姫 (とよみけかしきやひめ)尊、額田部(ぬかたべ)皇女 |
我が子・竹田皇子とともに我が国最初の女帝が眠る墓第33代・推古天皇が我が国初の女性天皇として登極したのは、592年12月である。その一ヶ月前の11月3日、蘇我の馬子の腹心である東漢(やまとのあや)の駒という人物に、崇峻天皇が倉梯の宮で殺されるという大事件が発生した。東国からの貢ぎ物を献上する儀式の最中だったという。『日本書紀』の叙述が正しければ、崇峻天皇は、5年前の587年に最大の政敵である物部の守屋(もりや)を葬り去った蘇我の馬子(うまこ)が、傀儡の王として擁立した人物である。だが、在位5年にもなると、臣下に操られる己の立場に我慢ができなくなったのであろう。馬子憎しと思う気持ちがその言動に表れ、逆に先手を打たれて馬子が放った刺客によって群臣たちの目の前で刺殺されてしまった。 天皇が臣下によって刺殺されることなど、今までなかった不祥事である。大和朝廷が大いに動揺したであろうことは十分想像できる。そうした混乱を収拾するために為政者が取る施策は、いくつかある。たとえば、対外戦争を起こして人民の関心を外に向けさせるなどは典型的な手法である。だが、『日本書紀』の編者からも「その性格は武略備わり、政務にすぐれ、仏法を敬った」と高い評価を受けた蘇我の馬子は、誰も予想だにしない策を打ち出した。敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)を登極させたのである。
とにかく、こうして我が国初の女帝が登場した。彼女の在位は36年の長きにわたる。だが、聖徳太子の在世中は、彼女の事績として語られるような叙述が『日本書紀』にはほとんどない。西暦628年3月7日、推古天皇は75才でこの世を去った。豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)と諡(おくりな)された。殯宮(もがりのみや)は朝廷の中庭に置かれた。喪礼はその年の9月20日に行われた。生前の遺言に従って、遺骸は9月24日、竹田皇子(たけだのみこ)が眠る陵に葬られた。その陵は最近発掘された奈良県明日香村の植山古墳とされている。後に、母子の遺骸は現在の「河内国磯長山田陵」に改葬された。改葬の時期は不明である。 |