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【名称】石舞台古墳、桃源墓 |
飛鳥時代に絶対的な権勢を誇った蘇我馬子の墓石舞台古墳は、奈良県明日香村の国営飛鳥歴史公園の中にある石舞台地区に位置している。玄室の天井石と側壁の上部が露出した異様な景観と、親しみやすいその名称から、飛鳥巡りの象徴的観光スポットになっている。『日本書紀』は、626年(推古34)5月に大臣(おおおみ)・蘇我馬子(そがのうまこ)が死に、遺骸を桃源墓に葬った、と記している。明治の末頃、この記述を基づいて石舞台古墳=桃源墓とみる説が唱えられ、現在もこの説が有力である。 蘇我馬子は飛鳥時代に絶対的な権勢を誇った蘇我本宗家の当主である。聖徳太子と共に推古朝の国政を主導した人物とされている。馬子が史書に初めて登場するのは、572年(敏達元)4月である。『日本書紀』は、敏達天皇の即位に際して、二年前に死亡した父・稲目(いなめ)の後を継いで大臣に任ぜられた、と伝えている。以来55年間、敏達、用明、崇峻、推古と四人の天皇の大臣として仕えた。 『日本書紀』は馬子の死亡を626年(推古34)5月20日としているが、彼の死亡時期については異説がある。『法王帝説』は627年(推古35)6月に薨るとしている。また『扶桑略記』によれば、何を根拠にしたか不明であるが、馬子の死亡年齢を76歳としている。 |
蘇我本宗家の系図蘇我本宗家の系図は、建内宿禰−蘇我石川宿禰−満智−韓子−高麗−稲目−馬子−蝦夷−入鹿 であったとされている。 この系図のうち、始祖とされる建内宿禰(たけちのすくね)は、古代諸豪族の集合祖として創出された伝説的人物と見なされている。蘇我石河(石川)宿禰も、蘇我連子(そがのむらじこ)の家系が684年から石川(臣)氏を名乗った際に、この氏によって構想・創出された祖先である。三代目の蘇我満智(そがのまち)は、『古語拾遺』によると、雄略天皇の時代に秦氏や漢氏を使って内蔵、大蔵等の管理をしていたらしい。歴史家の門脇貞二氏は、この蘇我満智が百済から渡来したとされる高級官僚の木(пE羅)満致と同一人物であるとし、蘇我氏の出自を百済人に求めておられる。韓子(からこ)、高麗(こま)について、史書はこれといった事績を伝えていない。結局、蘇我氏は稲目の代になって急速に発展する。 蘇我稲目以降四代の事績を概観すると、次のように言うことができる。稲目は一代で蘇我氏繁栄の基盤を築きあげた。馬子は父が築きあげた地位と権力を引き継ぎ、政敵だった物部本宗家を滅ぼして、蘇我家を天皇家をも凌ぐ豪族の地位に押し上げた。蝦夷は先代が築いた権力の座を守ることで汲々としていた。その子・入鹿は父の守勢を非難して、時勢に合った一族に変身しようとしたが、蘇我家の専横を憎む一派によって殺害され、本宗家を滅亡に追いやった。 蘇我馬子は、570年に死亡した稲目が築きあげた地位と権力を引き継ぎ、天皇家をしのぐ実力者として大和朝廷に君臨した。その権力のすごさは、キングメーカーとしての手腕にも見ることができる。587年、用明天皇が崩御すると、政敵の大連物部守屋を滅ぼし、傀儡として崇峻天皇を皇位に付けた。崇峻天皇が反抗的な態度をとると、592年に刺客を放って天皇を暗殺し、後継に姪の額田部皇女を皇位につけ推古天皇とした。そして、自分は外戚として政界に君臨しながら、聖徳太子に協力して、仏教興隆をはじめ新しい国作りを行なった。聖徳太子の業績とされるさまざまな施策も、実は馬子に帰すべきであるとする説もある。 蘇我氏に対して批判的な『日本書紀』の編者でさえ、蘇我馬子には一目置いている。推古天皇34年の条で、「大臣は蘇我稲目の子で、性格は武略備わり、政務にもすぐれ、仏法を敬った」と記し、尊敬の念を隠していない。さらに続けて「(大臣は)飛鳥川のほとりに家居した。その庭の中に小さな池を造り、池の中に小さな島を築いた。それで時の人は、嶋大臣といった」と記述している。 |