小野妹子墓(おののいもこのはか)

ああああ
小野妹子の墓へ続く石段

【墓名】小野妹子墓
【所在】大阪府南河内郡太子町山田
【墳形】
【規模】
【アクセス】近鉄河内長野線「喜志駅」から東へ東4.3km


小野妹子略記

  • 推古15(607年)年7月、遣隋使節大使として隋に遣わされる。時に大礼。隋国は妹子を号して蘇因高といった。
  • 同16年(608年)4月、隋より帰朝。隋使・裴世清らの一行を伴う。
  • 同16年9月、裴世清の帰国に際し、再び大使となり、小使吉士雄成、通事鞍作福利とともに、隋に遣わされる。
  • 同17年(609年)9月、隋より帰朝。その功績により、大徳の冠位を授かる。


遣隋使節の大使として抜擢された地方出身の青年

小野妹子の墓
小野妹子の墓
 小野の妹子(いもこ)は、5世紀から6世紀半ばにかけて天皇家と姻族関係をもった和珥(わに)臣や春日臣と同族の小野氏の出である。出身地は近江国志賀郡小野村(現、志賀町小野付近)とされている。標高1000mを超す比良山系を背後に控え、南北に広がるこの辺りは、当時は琵琶湖を見下ろす静かな集落だった。そこで生まれ育った二流氏族の青年が、607年(推古15)に遣隋使節の大使を拝命した。当時の飛鳥には、大陸の知識を身につけた有用な渡来系氏族の子弟も多かったと思われる。それなのに、無名に近い地方出身の男がいきなり大使に大抜擢された。その背景が実はよく分からない。妹子がよほど優れた能吏だったか、それとも股肱の臣として聖徳太子によほど気に入られていたとしか考えようがない。大使としてそれなりの肩書きが必要なのは、今も昔も変わらない。妹子は大礼(だいらい)という冠位を授かった。4年前に制定された新しい冠位制度の上から5番目の冠位である。

唐臼山古墳
唐臼山古墳
 遣隋使節の大使として小野の妹子が果たした業績は、上の略記に示した通りである。その業績が評価されたのか、それともその後にも別の業績を残したのか、妹子の最後の冠位は大徳(だいとく)だったという。冠位十二階の最高位である。妹子がその後歩んだ人生や死亡時期は、残念ながら一切分からない。現在、妹子の墓とされる場所が二カ所ある。。大阪府南河内郡太子町山田には、科長(しなが)神社の南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる楕円状の小さな塚がある。100段の石段を昇った山の中腹にあり、眺めがとてもよく、推古天皇陵や二子山古墳が真下によく見える。”いもこ”の名で土地の人に親しまれている桜や紅葉の名所である。滋賀県志賀町小野水明にある唐臼山古墳も妹子の墓と伝えられている。


小野の妹子の子孫たち

 妹子の子に小野朝臣毛人(えみし)がいる。毛人の墓誌銘によれば、天武天皇に仕え、太政官兼刑部大卿大錦上で、677年(天武6)12月に葬られた。その毛人の子が、小野朝臣毛野である。『続日本紀』によると、毛野が死亡したのは714年(和銅7)4月で、死亡時期の位階は中納言従三位兼中務卿勳三等だった。毛野は妹子の直系の孫にあたる。遣隋使として活躍した祖父はおそらく一族の誇りだったに違いない。『日本書紀』の妹子に関する記述は、あるいは毛野から提出された資料を参考にしているかもしれない。

 小野の妹子の一族は飛鳥時代から平安時代にかけて有為な人材を輩出した。 小野篁、小野道風も一族である。 歌人の小野小町も一族であるとの説もある。


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