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【陵名】河内磯長中尾陵、太子西山古墳 |
敏達天皇略記
【別名】訳語田渟中倉太珠敷(おさだのぬなくらふとたましき)尊 |
敏達天皇とその母の石姫を埋葬した合葬陵第30代・敏達天皇(在位572 - 585)が眠るとされる陵は、推古天皇陵から西へ20分ほど歩いた磯長谷の西端に位置する丘陵の上にある前方後円墳である。『日本書紀』によれば、この陵は当初、石姫(いしひめ)を埋葬するために造られた陵だった。石姫は欽明天皇の皇后でり、敏達天皇の実母である。したがってこの陵は敏達天皇とその母の二人を埋葬した合葬陵ということになる。 敏達天皇陵は、王陵の谷である磯長谷では特異な存在である。まず、磯長谷で唯一の前方後円墳である。次に、蘇我系の王族が眠る磯長谷にあって、唯一非蘇我系の王陵である。広姫が死亡したのは575年11月であるから、その翌年か翌々年にはその陵墓が営まれたであろう。磯長谷で最初に造られた御陵である。 広姫は皇后に立てられたその年に死亡してしまった。二人目の皇后として立てられたのは豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、後の推古天皇)である。敏達天皇が薨去したとき、広瀬に喪屋(もや)という特別な建物が造られて、哭泣、供膳、歌舞などの殯(もがり)の儀礼が行われた。その殯の宮を主催したのは豊御食炊屋姫である。夫に対してよほど深い愛情を抱いていたのであろう。それにしても、6年も夫の遺骸と一緒に寝起きを共にするというのも異常である。彼女は当初、夫のために壮大な御陵を造営することを指示していたにちがいない。最初から夫の実母と同じ墓に埋葬するつもりだったら、もっと早い時期に埋葬できたはずである。 何かの事情で、敏達天皇を埋葬する陵墓の造営が中止された。そのため、広姫が眠る陵に合葬することになった。そう考えざるを得ない。豊御食炊屋姫は在位20年目の612年、実母の堅塩媛(きたしひめ)を父の眠る檜隈大陵に改葬している。檜隈大陵とは宮内庁が比定している欽明天皇陵ではなく、見瀬丸山古墳とする説が有力である。この古墳には石棺が2基納められているのがすでに確認されている。しかも、奥に納められたものより、手前のものが古い。ということは、最初奥に納められていた欽明天皇の棺を手前に引き出し、堅塩媛の棺をその位置に安置させたことになる。こうしてみると、推古天皇は夫や身内の埋葬に何か異常な執念を抱いていたと思われる。 |