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| 市野川の堤からの吉見百穴遠望 (2003/11/23 撮影) |
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【所在地】 埼玉県比企郡吉見町北吉見315 |
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「百穴」の"百"は実数ではない。単に数が多いということから百穴と呼ばれている。「百穴」の名が文献に見られるのは、江戸時代の中頃からである。その頃から不思議な穴として興味を持たれていたのだろう。この丘陵一帯は雑木や雑草が生い茂っていて、明治の始め頃には20ほどの横穴が露出していたという。当時の伝承では、大昔火の雨が降ったとき里人が逃げ隠れた場所だとか、近くにあった松山城の兵器を保管した場所だと言われていた。 この土地は地元の素封家・根岸武香氏と大沢藤吉氏の共有地だったが、時代が明治に変わると、内外の著名な考古学者が見学に来て、横穴の性格についてさまざまな意見を発表した。その中には、古代人の住居跡であるとか埋葬の穴であるといった説もあった。しかし、いずれも十分な研究に基づいた説ではなかった。
横穴が分布する丘陵の斜面は45度の勾配があり、4つの突出部のほとんど全面に横穴が築かれていた。横穴は斜面ごとに斜行する平行線上に配列されていて、それぞれは玄室と羨道で構成されていた。玄室の形態は、正方形に近いものや奥行きの長い長方形のものなど8つの形式に分類できた。天井はアーチ状のものと平らなものがあった。棺を安置する棺座は、発掘した横穴のほぼ半数に築かれていた。左右のいずれか一カ所に棺座が設けられている横穴がもっとも多かった。副葬品として、金環、銀環、勾玉、管玉、小玉、太刀、刀装具、鉄鏃、須恵器、土師器、円筒埴輪、人骨などが出土した。 坪井正五郎氏は、横穴の構造や出土品の詳細を、本人が編修する東京人類学雑誌の第10号と第22号に発表した。そして、これらの横穴はアイヌの伝説的な先住民である土蜘蛛人(コロボックル)の住居跡であると発表した。以来、学会では穴居説と墓穴説で大論争が展開された。 |
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後述するように、第二次世界大戦の末期に、この史跡の中に地下軍需工場が作られた。戦後もそのまま放置されたので、史跡は荒廃した。昭和25年(1950)になって、地元に吉見百穴保存会が結成されて史跡の整備が開始され、昭和36年(1961)には吉見町が管理者となって引き続き史跡の保存管理を行っている。昭和29年(1954)に行われた実測調査では、指定区域内に219基の横穴墓があったことが確認された。しかし、平成6年(1994)に刊行された『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』では、その数が198基に減っている。 これらの横穴墓の形成時期は7世紀代とされているが、埴輪が存在することから、出現時期を6世紀末まで逆のぼらせる説もある。 |
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「吉見百穴」には、多数の横穴墓と同居するように巨大な洞窟がいくつも築かれている。第二次世界大戦の末期にあたる昭和20年(1945)の初頭から8月にかけて掘られた地下軍需工場跡である。戦争末期、日本各地の軍需施設はアメリカ軍のB29爆撃機の標的にされた。そこで、当時我が国最大と言われた中島飛行機株式会社は、この地に地下工場を建設し、大宮工場にあったエンジン製造部門の全施設を移すことにした。
現在公開されている地下工場跡は、掘削されたトンネルの10分の1にも及ばないという。入り口から一歩トンネルに足を踏み入れると、入り口付近にあった横穴墓がいくつも破壊されたことがわかる。薄暗い灰色のトンネルは数カ所で前後左右に結ばれ、地下の迷路に迷い込んだような錯覚を受ける。トンネルの壁には一定の間隔をおいて窪みが掘られている。部品などの保管場所として掘削された跡にちがいない。
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丘陵の麓に金網で入り口を覆った横穴が2つほどある。その奥にヒカリゴケが自生しているというので覗いてみた。しかし、ほとんど何も見えなかった。幾分白っぽく見える箇所があったが、あるいはそこにヒカリゴケが生えていたのかもしれない。 |