吉見百穴(よしみひゃくあな)  全国的によく知られている横穴墓群の国指定史跡

吉見百穴
市野川の堤からの吉見百穴遠望 (2003/11/23 撮影)

メモ

【所在地】 埼玉県比企郡吉見町北吉見315
【墳形】 横穴墓
【築造】 6世紀末〜7世紀初頭
【アクセス】 電車利用: JR高崎線「鴻巣駅」東口下車、東武バス「東松山行」約25分。東武東上線「東松山」駅東口下車、東武バス「鴻巣駅免許センター行」約5分。自動車利用: 関越自動車道東松山I.Cから、鴻巣方面へ約5km。東京方面から 国道17号より鴻巣左折、約10km

市野川沿いの丘陵斜面に築かれた横穴墓群


標識
 埼玉県の東松山市と吉見町の境界を、市野川という川が流れている。その左岸の標高45mの丘陵に、斜面を利用して横穴式の墓が多数築かれた跡が残っている。「吉見百穴(よしみひゃくあな)」という名で知られる、吉野町の観光の名所である。国の史跡にも指定されている。東松山市と鴻巣市を結ぶ県道27号線が、市野川をまたぐ橋のすぐ近くだ。

 駐車場で車を降りて丘陵を仰いだとき、最初に受ける印象は、幼稚園の児童がクレヨンで描いた高層マンションの絵を見るようだった。灰色の壁に黒い四角の窓が整然と並べてある。だが、窓の一つ一つは7世紀の初頭前後に築かれた横穴墓の跡である。横穴墓とは、封土を盛った群集墳に代わって営まれた墓制である。墓室の構造は普通の古墳の石室とほぼ同じで、古墳の横穴式石室から派生したものと考えられている。多少大きさにに差はあるものの、狭い羨道の奥に玄室があり、一つまたは二つの棺台が奥に作ってある。

吉見百穴
斜面に掘削された百穴(部分)
 この付近の丘陵は凝灰岩質の砂岩でできている。軟質の岩のため横穴をうがつのに適している。6世紀末から7世紀の初頭にかけて、この地域では盛んに横穴墓が築かれた。吉見百穴の北方2kmほどのところには、黒岩横穴墓群がある。500から700の横穴があるといわれているが、大半は発掘されていないため正確な数は分かっていない。その他にも、天神山横穴墓群(滑川町)、比丘尼山横穴墓群(東松山市)、尾根横穴墓群(嵐山町)、十郎横穴墓群(鳩山町)などがある。これら横穴群の出現は、渡来系の人々の移住による新しい文化の伝播が背景にあるものと推測されている。7世紀の初頭前後と言えば、中央の大和朝廷では、聖徳太子がさまざまな政治改革に乗り出した頃だ。

 前方後円墳などの巨大古墳が豪族の族長層の墓であるとすれば、横穴墓は庶民の墓と言える。この付近は、早くから大和朝廷の直轄地だったところで、吉見の地には横淳屯倉(よこぬなみやけ)が置かれていた。そのため、地方豪族の支配から解放されていたと思われ、横穴墓が盛んに作られたと推察されている。


百穴を発掘調査した坪井正五郎氏は、コロボックル住居説を唱えた


 「百穴」の"百"は実数ではない。単に数が多いということから百穴と呼ばれている。「百穴」の名が文献に見られるのは、江戸時代の中頃からである。その頃から不思議な穴として興味を持たれていたのだろう。この丘陵一帯は雑木や雑草が生い茂っていて、明治の始め頃には20ほどの横穴が露出していたという。当時の伝承では、大昔火の雨が降ったとき里人が逃げ隠れた場所だとか、近くにあった松山城の兵器を保管した場所だと言われていた。

 この土地は地元の素封家・根岸武香氏と大沢藤吉氏の共有地だったが、時代が明治に変わると、内外の著名な考古学者が見学に来て、横穴の性格についてさまざまな意見を発表した。その中には、古代人の住居跡であるとか埋葬の穴であるといった説もあった。しかし、いずれも十分な研究に基づいた説ではなかった。

数多い横穴墓の一つ
丘陵斜面に築かれた数多い横穴墓の一つ
 明治20年((1887)8月のことである。二人の人物が土地所有者を訪れた。当時東京帝大の大学院生だった坪井正五郎氏と、その友人の若林勝邦氏である。二人は丘陵を試掘させて欲しいと頼んだ。土地所有者の快諾を得て試掘を行なった結果、多数の横穴が埋まっていることが判明した。そこで、坪井氏は帝国大学に建議して、発掘調査のための資金を確保すると、大々的な発掘を行なった。その作業は徹底していた。地肌が露出するまで、雑木や雑草をすべて除去した。その結果、6ヶ月の調査で総数230の横穴が発掘された。横穴は層をなして並列に掘られていて、遠望すると蜂の巣のようでもあり、層楼の窓戸を開閉したようでもあったという。発掘作業当時の写真が、丘陵下で店を構える土産物屋の壁に何枚も貼られている。

 横穴が分布する丘陵の斜面は45度の勾配があり、4つの突出部のほとんど全面に横穴が築かれていた。横穴は斜面ごとに斜行する平行線上に配列されていて、それぞれは玄室と羨道で構成されていた。玄室の形態は、正方形に近いものや奥行きの長い長方形のものなど8つの形式に分類できた。天井はアーチ状のものと平らなものがあった。棺を安置する棺座は、発掘した横穴のほぼ半数に築かれていた。左右のいずれか一カ所に棺座が設けられている横穴がもっとも多かった。副葬品として、金環、銀環、勾玉、管玉、小玉、太刀、刀装具、鉄鏃、須恵器、土師器、円筒埴輪、人骨などが出土した。

 坪井正五郎氏は、横穴の構造や出土品の詳細を、本人が編修する東京人類学雑誌の第10号と第22号に発表した。そして、これらの横穴はアイヌの伝説的な先住民である土蜘蛛人(コロボックル)の住居跡であると発表した。以来、学会では穴居説と墓穴説で大論争が展開された。


現在確認されている横穴墓の数は198基


横穴墓跡
斜行する平行線上に配列された横穴墓跡
 大正時代になると、考古学の発達によって各地で横穴が発見されるようになった。そして、発掘された出土品や横穴の構造から、古墳時代後期に死者を埋葬するために作られた群集墓であることが明らかになり、穴居説はくつがえされた。そして、大正12年(1923)に、「吉見百穴」は我が国の代表的な横穴墓群として、国の史跡に指定された。

 後述するように、第二次世界大戦の末期に、この史跡の中に地下軍需工場が作られた。戦後もそのまま放置されたので、史跡は荒廃した。昭和25年(1950)になって、地元に吉見百穴保存会が結成されて史跡の整備が開始され、昭和36年(1961)には吉見町が管理者となって引き続き史跡の保存管理を行っている。昭和29年(1954)に行われた実測調査では、指定区域内に219基の横穴墓があったことが確認された。しかし、平成6年(1994)に刊行された『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』では、その数が198基に減っている。

 これらの横穴墓の形成時期は7世紀代とされているが、埴輪が存在することから、出現時期を6世紀末まで逆のぼらせる説もある。


戦時中に築かれた地下軍需工場跡


 「吉見百穴」には、多数の横穴墓と同居するように巨大な洞窟がいくつも築かれている。第二次世界大戦の末期にあたる昭和20年(1945)の初頭から8月にかけて掘られた地下軍需工場跡である。戦争末期、日本各地の軍需施設はアメリカ軍のB29爆撃機の標的にされた。そこで、当時我が国最大と言われた中島飛行機株式会社は、この地に地下工場を建設し、大宮工場にあったエンジン製造部門の全施設を移すことにした。

地下工場
地下軍需工場跡の入り口
 掘削には、全国からかり出された3000〜3500人の朝鮮人労働者が当てられた。昼夜を分かたない突貫工事で、ダイナマイトを使用して幅4.0m、高さ2,2mの馬蹄形のトンネルが掘られた。7月頃には完成した場所に工作機械が搬入され、大宮工場から転居してきた従業員や勤労学徒によってエンジンの部品製造が開始されたという。しかし、本格な生産活動に移る前に終戦を迎えた。

 現在公開されている地下工場跡は、掘削されたトンネルの10分の1にも及ばないという。入り口から一歩トンネルに足を踏み入れると、入り口付近にあった横穴墓がいくつも破壊されたことがわかる。薄暗い灰色のトンネルは数カ所で前後左右に結ばれ、地下の迷路に迷い込んだような錯覚を受ける。トンネルの壁には一定の間隔をおいて窪みが掘られている。部品などの保管場所として掘削された跡にちがいない。

ムクゲ
ムクゲ
 掘削工事に従事した最後の朝鮮人労働者たちは、日韓関係の平和を希望して、韓国の国花であるムクゲの苗木を帰国に際して植えた。韓国ではムクゲを「無窮花(ムグンファ)」といい、 国の繁栄を意味する花として愛されている。その木が現在もこの地で生長を続けている。


天然記念物のヒカリゴケが自生する横穴


ヒカリゴケ
ヒカリゴケ
 「吉見百穴」の中に、幻想的な緑色を放つヒカリゴケ(光苔)が自生する横穴がいくつかある。このコケの胞子から発芽した原糸体の細胞はレンズとして機能し、入射してくるわずかな光は、葉緑体が集まっている細胞の奥のほうで反射する。コケ自体が発光しているわけではない。ヒカリゴケは北半球の冷涼な地域に生育するが、関東平野にあるのは植物分布上きわめて貴重とされている。

 丘陵の麓に金網で入り口を覆った横穴が2つほどある。その奥にヒカリゴケが自生しているというので覗いてみた。しかし、ほとんど何も見えなかった。幾分白っぽく見える箇所があったが、あるいはそこにヒカリゴケが生えていたのかもしれない。



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