新郷貝塚(しんごうかいづか)  縄文時代後期から晩期(紀元前2000〜500年)にかけての埼玉県でも有数の貝塚

新郷貝塚の標識
新郷貝塚の標識 (撮影 04/02/06)

メモ

【所在】 川口市東貝塚25他 新郷若宮公園内
【アクセス】 JR京浜東北線「川口駅」東口から峯八幡宮経由・安行出羽行バス(川22)で 「大竹入口」バス停下車、徒歩3分


貝塚は縄文時代の人々の生活を今に伝える"語りべ"

新郷若宮公園
新郷若宮公園として整備されている貝塚
 関東地方では9,000年前から貝塚が作られるようになったとされている。川口市では約6,000年前の縄文時代前期に作られた小谷場(こやば)貝塚が最も古い。この時期は海が最も内陸へ進入していたころで、小谷場貝塚では海水に住むハマグリやアサリなどが多く発見されている。

 縄文時代の海岸線は、中期・後期・晩期と時代が下るにつれて後退し、現在の海岸線に近づいて行く。縄文時代後期から晩期(紀元前2000〜500年)にかけては、川口の貝塚文化が最も盛んだった頃で、新郷貝塚や石神貝塚、前野宿貝塚など大規模な貝塚が多数作られている。

 これらの貝塚のうち、新郷貝塚は市内で最大規模のものであり、原形を留めている数少ない遺跡として埼玉県でも有数の貝塚として知られている。この時期の貝塚は、淡水の貝を主体とした主淡貝塚が多い。上に示した川口市内の貝塚はいずれも主淡貝塚である。新郷貝塚では、ヤマトシジミ、セタシジミ、オキシジミ、ハマグリ、ハイガイ、サルボウ、シオフキ、サザエ、アカニシ、カガミガイなどの貝が出土している。

 縄文人が捕食していた魚介類や鳥獣、さらには彼らが使用していた土器など当時の生活の様子を知る上で、貝塚は貴重な情報源がたくさん詰まっている。また、貝塚の位置や貝の種類を分析することで、海進・海退の様子が分かるし、貝を採取した季節すら知ることができる。言うならば、貝塚は縄文人の生活を今に伝える"語りべ"である。

新郷若宮公園の入口
新郷若宮公園の入口
 後述するように、新郷貝塚の発掘の歴史は明治時代に始まっている。数次の発掘調査で当時の縄文人の生活を解明する多くの情報が得られている。現在、新郷貝塚は新郷若宮公園として整備され、閑静な住宅街の中にある。公園の中は散策に適した遊歩道が張り巡らされ、小径に積もった枯葉の下には縄文人が捨てた貝殻のカケラが埋まっている。

 この貝塚から発掘された縄文人の骨をDNA分析したところ、現在のアイヌ民族に似ていることが判明したそうだ。日本人の原点は、日本海が陸続きだった頃に北方から渡ってきたきた北方種族、主に中国・朝鮮周辺から渡ってきた種族、そして南方から黒潮に乗って渡ってきた南方種族の混血にあるとされている。したがって、縄文時代にこの付近で生活していた人々は、まだ種族の血が混じり合う前のアイヌ民族だったことになる。



東側から入り込む谷を囲むように馬蹄形を呈する遺跡


新郷貝塚の構成
新郷貝塚の構成
 新郷貝塚は、埼玉県の指定史跡である。東側から入りこむ谷の奥を囲むようにして4地点の貝塚が馬の蹄を形作るように分布していて、その範囲は東西方向約120m南北方向に約150mの広がりを持つ。堆積された貝の厚さは、A地点で1m以上とされている。

 新郷貝塚の発掘の歴史は古い。日清戦争前年の明治26年(1893)には、鳥居龍蔵博士が調査を実施された。その後、昭和2年(1927)に秩父宮の台臨に際して柴田常恵が調査を行っている。4年後の昭和6年(1931)には、県史編纂事業の一環として、また昭和8年(1933)には、当時の東京帝国大学医学部解剖学教室が発掘調査を実施している。これらの調査によって、貝塚だけでなく、3軒の竪穴式住居跡と伸展葬3体を含む5体の人骨が見つかった。

 出土した土器の種類も多く、縄文時代後期の称名寺式や堀之内式、加曽利B式、および後・晩期安行式のものが出土している。その他にも、土偶、土板、耳飾りなどの土製品や、石鏃、石斧、石棒などの石器類、貝輪や貝刀も出土した(出典:川口市教育委員会作成説明板)。



(2004/02/06 記す) 次へ 前へ