聖天院(しょうでんいん)  高麗王若光の菩提寺として、侍念僧・勝楽上人が創建したと伝えられている寺

聖天院の雷門
聖天院の雷門 (03/12/04 撮影)

メモ

【寺号】 高麗山聖天院勝楽寺
【宗派】 当初法相宗、後に真言宗智山派
【本尊】 不動明王座像(鎌倉仏師大蔵法眼作)
【アクセス】 高麗神社から徒歩約5分


平成12年に新本堂を落成してイメージを一変させた寺院


拝観案内図
聖天院拝観案内図
 聖天院は、高句麗から渡来した高麗王若光の菩提寺として高麗川の左岸に建立された寺である。寺伝によれば、若光に従っていた僧の勝楽が、若光の冥福を祈るためにその念持仏だった聖天歓喜仏を本尊とする寺院を建立しようとした。だが、完成をみないで天平宝字3年(751)に没してしまったので、その後弟子の聖雲(若光の第三子)らが、勝楽の遺志を受け継ぎ一寺を建立した。それが高麗山聖天院勝楽寺である。聖天歓喜仏を本尊として祀ったことから、聖天院の名で広く知られている。

 聖天院は、高麗神社から南西方向に徒歩5分ほどのところにある。高麗神社の参道から横道に入り、静かな住宅の間の道を歩いていくと、広々とした寺の駐車場に出る。駐車場の向こうに、丘陵の傾斜に沿って建てられた伽藍が木立の間に見える。そこが聖天院である。

 聖天院の堂宇は当初から現在地にあったわけではない。寺伝によると、寛永年間(1624 - 44)に火災に遭って堂宇が焼失し、寺地を背後の丘陵寄りに移して再建されたとのことだ。門前の畑や西方には旧坊舎の金蓮坊・梅仙坊などの跡がある。江戸時代には、聖天院は高麗郡の本寺として、門末54寺を擁するほど隆盛を誇った。”院主の格式は諸侯に準ずる”とされたほどである。

 だが、長い星霜を重ねるうちに、寛永の火事の後に再建された堂宇も古くなった。特に本堂の老朽化はひどかった。そこで、裏山を整地して新しい本堂を建立することになった。完成までに7年の歳月を要し、平成12年(2000)にやっと落成にこぎつけた。旧本堂跡地には、中門と塀を新しく建立し、阿弥陀堂を移築したり、庭園を拡張するなどの整備もおこなった。このため、寺のイメージは以前とは一変している。

 寺の正面には、「天下大将軍」「地下女将軍」と書かれたチャンスンが建っている。高麗神社の駐車場に建っていたのとは異なり、こちらは石柱である。チャンスンの先の一段高くなったところに、楼閣のような雷門が聳えている。左右に風神と雷神の巨像を安置し、天井から巨大な提灯が下がっている門で、天保3年(1832)に建立された。



若光を祀る高麗王廟


石碑
金鐘■氏揮毫の石碑
 若光を祀った高麗王廟が雷門の右手にあるというので、まずこちらを見学することにした。

高麗王廟
高麗王廟
 大韓民国の元首相・金鐘泌氏の揮毫で「高句麗若光王陵」と書かれた黒御影の大きな碑が建っている。その背後に、「高麗王廟」の額がかかった覆い屋があり、若光の墓とされる多重石塔がその中に納められている。第一印象は、古い街中にある地蔵菩薩を安置した小さな堂に似ていた。しかし、石塔は凝灰岩で造られた、純然たる朝鮮様式の多重塔である。鎌倉時代の建立と推定されており、墓石の四面に仏像が描かれている。

築山
高麗王廟横の築山
 高麗神社に伝わる「高麗系図」には、若光の死後、彼に従う人々は屍を城外に埋め、霊廟を御殿の後山に建てて高麗明神と崇めたと記されている。その時建てた霊廟がこの高麗王廟かどうかは不明である。

 王廟の右横に小さな池があり、その池を見下ろす山の斜面に土饅頭のような築山が築かれている。韓国の古代の王陵も似たような形をしているため、最初はこの築山が若光の墓かと勘違いした。後で住職に確認すると、築山は墓ではなく、庭園の一部として作られたとのことである。築山の近くにも、巨大な多重石塔が建っている。


寺院の境内には珍しい庭園


庭園
境内の中の庭園
 雷門の先にある石段を登ると、新築の中門に受付がある。拝観料を払って一歩境内に足を踏み入れると、通常の寺院とは趣を異にする光景を目の当たりにする。正面に池を配した庭園とその右奥の書院と庫裡がドンと控えている。中門を入って通常目にする金堂も塔も見あたらない。まるで、保存のよい武家屋敷の庭園に入り込んだような錯覚を感じた。かっての本堂跡地に拡張された広い庭は、明るい冬の日差しの下で、あくまで静かだった。

 正確な言い方をすれば、中門を入って左手の奥に、木造阿弥陀如来座像を本尊として祀る阿弥陀堂がある。本堂移建にともなう跡地整備で、現在の場所に移設されてきた建物である。五間四尺四方の木造茅葺きの平屋で、宝永年間(1704 - 11)に檀主の金子六左衛門が寄進したという。さらに、正面の崖の上には、本堂の甍が顔を出している。本堂にたどり着くには、阿弥陀堂の横からかなり急な石段を何段も登らなければならない。

阿弥陀堂
阿弥陀堂
 阿弥陀堂の前のモミジの木が、所かまわず枯葉をまき散らしている。人気がない境内で、一人の老婦人が竹箒で丹念に落ち葉をかき集めていた。聞いてみると、近所に住んでいてボランティアで庭掃除に来ているそうだ。庭掃除といっても、半端な広さではない。枯葉が完全に落ち尽くすまでは、イタチごっこのような日々が続くと、笑みを浮かべながら話してくれた。



国の重要文化財に指定された銅鐘


庭園
鐘楼と若光の石像
 阿弥陀堂の脇から、丘陵の傾斜に沿って作られた長い石段を登り切ると、前面に石像が建っている。高麗王若光の像である。実際の若光を描いた肖像画が残されているわけではない。したがって、この石像は作者が思い描いた理想像であろう。しかし、近寄って眺めると、意外とこうした風貌の渡来人だったようにも思えてくるから不思議である。

石像の横に鐘楼がある。説明板によると、この寺には、国の重要文化財に指定された銅鐘がある。大檀那の比丘尼・信阿弥と平定澄朝臣が、鎌倉時代に関東各地に名鐘を残した物部季重に造らせて、文応2年(1262)に当寺に奉納したとされている。鐘の高さは81.2cm、口径45cmで、上帯に雲、下帯に唐草文が繊細に鋳出しされており、全体の姿も優美であるという。現在鐘楼に吊してある鐘は、もちろん国の重要文化財のそれとは異なる。機会があれば、いちど本物の銅鐘の音を聞いてみたいものだ。

 銅鐘以外の文化財としては、応仁2年(1468)11月9日の銘がある鰐口(県指定有形文化財)と県指定有形文化財徳川将軍歴代寺領寄進状12通(県指定有形文化財)がある。



平成12年に落成した新本堂


本堂
平成12年に新装なった本堂
 3年前の平成12年(2000)、裏山の山腹を整地して総ケヤキ造りの新しい本堂が落成した。寛永年間に焼失したため再建された本堂は茅葺きだった。先代住職の代には瓦屋根に改修するなど維持に努めてきたたが、老朽化が進んでこれ以上の補修は困難となったと判断されたため、新しく立て直すことにしたという。7年の歳月を費やして完成した建物は、柔らかい日差しの下ではその真新しさがまばゆいばかりである。

 この本堂に本尊として安置されているのは、天正8年(1580)に鎌倉仏師の大蔵法眼が彫り上げた寺宝の不動明王座像である。奈良時代当初は、本寺は若光の守護仏だった聖天仏を本尊として祀る法相宗の寺だった。以来600年間、法相宗の道場だったが、当寺の中興の開基とされる秀海の代に、真言宗に改宗したという。貞和年間(1345 -50)のことである。天正12年(1584)、圓真上人は不動明王座像(胎内仏弘法大師作)を本尊とし、聖天は別壇に配祀した。住職の話では、現在は秘仏扱いで開帳されていないとのことだ。

雪山
雪山
 本堂の横に、凝灰岩が露出した箇所がある。本堂を新築するために裏山を整地したときに出てきた岩だそうだ。その形が雪を懐いた山に似ているところから、寺では「雪山」と呼んでいる。



新本堂と同じ時期に建立された在日韓民族無縁仏の慰霊塔


慰霊塔
無縁仏の慰霊塔
 鐘楼の背後に、山腹を切り開いた道が続いている。その先に石塔が見える。 近づいてみると、在日韓民族無縁仏の慰霊塔だった。第二次世界大戦の不幸な歴史の中で多くの韓国人が亡くなり、無縁仏のまま供養もされずに放置されてきた。それらの無縁仏に久遠の安眠を与え供養したいと願う在日韓国人の篤信者たちによって、平成12年(2000)1月にこの塔が建立された。

 日本の朝鮮支配36年間を象徴して、塔は36段階で造られていて、高さは16m。塔の下部は納骨堂になっている。石塔としては日本最大であるという。

石像
偉人たちの石像
 石塔が建つ広場の周囲には、壇君をはじめ、広開土王、太宗武烈王、鄭夢周、王仁博士、申師任堂などの石像が配してある。無縁仏が生前は白衣民族であったことを忘れないための配慮だそうだ。いずれも韓国人の自尊心を高揚した偉人たちである。

 1919年3月1日、ソウルのパゴダ公園(塔洞公園)でデモの集会が行われ、午後2時には公園は約5000人の学生・市民たちで埋め尽くされた。その中から一人の青年が公園の中心にある八角亭に現れた。彼は群集に向かって一枚の印刷物を読み上げた。独立宣言書だった。これをきっかけに、日本の植民地支配からの独立を求める大衆的な示威運動が朝鮮半島全土に広がった。いわゆる3.1独立運動である。韓国人にとって、バコダ公園の八角亭は記念すべき建物である。その八角亭を縮小した建物が、慰霊塔の左手前に建っている。韓国の同胞によって、韓国の建材を使用して施工された八角亭である。




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