埼玉県立さきたま資料館  史跡公園「さきたま風土記の丘」にある資料展示館

県立さきたま資料館
ケヤキ並木が美しい資料館前 (2003/11/23 撮影)

メモ

【所在地】 埼玉県行田市大字埼玉4834
【アクセス】 JR高崎線「吹上」駅または秩父鉄道「行田市」駅よりバス、またはJR高崎線「北鴻巣」駅より徒歩5km。
【電話】048-559-1111 【FAX】048-559-1112



資料館
県立さきたま資料館
 さきたま古墳公園の真ん中を貫いて、鴻巣市と行田市を結ぶ県道77号線が走っている。その県道を挟んで北側に公園の駐車場があり、南側に県立さきたま資料館がある。筆者がこの公園を訪れた勤労感謝の日は、3連休の中日だった。好天に恵まれたせいか、家族連れで公園に出かけてきた車で広い駐車場はほぼ満杯だった。県道から資料館へ通じる道の両側には、ケヤキ並木が続いている。紅く色づいた木の葉で一杯の梢が午後の青空に向かって伸びていた。

 昭和44年(1969)に建てられた県立さきたま資料館は、考古展示室と民俗展示室の二つからなる。考古展示室では昭和58年(1983)に国宝に指定された「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」を中心に、埼玉古墳群や周辺の遺跡からの出土した埴輪などを展示している。民俗展示室では県北地域の民俗資料を体系的に集めた重要有形民俗文化財「北武蔵の農具」を展示している。


考古展示室のエントランスに掲げられたパネル


 考古展示室の入り口のところに、興味深いパネルが壁に貼ってあった。関東地域全域の古墳分布状況を地図上に示したものである。地図を見ると、現在の埼玉県地域は、秩父地方を除いた東部地方が北を利根川水系、南を荒川水系に挟まれた低地帯であり、その中央を微高地が横たわっていることがよく分かる。低地帯は両河川の氾濫で肥沃な水田地帯であり、弥生時代から古墳時代には稲作が行われた。したがって、古墳時代のめぼしい墳墓は低地帯には存在しない。埼玉県域で古墳が出現するのは4世紀後半からであり、中央の微高地や西部の丘陵地帯に築かれた。それまで古墳が存在しなかった行田市に突如として巨大古墳が出現するのは、県域での地域統合が進み、この地が武蔵統合の一大拠点となった5世紀末ごろである。

 地図の下には関東7県で発見された大型古墳の数が、前方後円墳と前方後方墳に分類して表示してあった。その内容を以下に転記しておく。データは平成8年3月現在のものとのことだが、この表を見る限り、関東地方で古墳の数が多いのは、群馬、茨城、千葉であり、埼玉県は意外と少ない。

前方後円墳前方後方墳
50-100m100-150m150M<50-100m100m<
埼玉296035404
東京5207101
神奈川6006101
群馬127234154415
栃木44504912214
茨城10262110404
千葉8214096202
合計39556645728331

 さらに、埼玉古墳群を構成する各古墳の大きさを示すパネルも掲げてあったので、参考のために以下に転記しておく。

各古墳の規模(規模の単位はm)
古墳名墳形全長後円部径後円部高さ前方部幅前方部高さ築造時期
丸墓山古墳円墳105-18.9--6世紀前半頃
二子山古墳前方後円墳1387013.09014.96世紀初頭前後
稲荷山古墳1206211.77410.7(推定)5世紀末
鉄砲山古墳109559.06.910.16世紀後半頃
将軍山古墳90398.4(復元)689.4(復元)6世紀後半
中の山古墳79425.1445.46世紀末〜7世紀初め
瓦塚古墳"7336.55.1474.96世紀前半〜中頃
奥の山古墳70436.84.77.46世紀中頃
愛宕山古墳53303.4303.36世紀前半頃


考古展示室の中央に展示された「金錯銘鉄剣」

金錯銘鉄剣
金錯銘鉄剣(部分)

 考古展示室に並べられた古墳出土品の中で、見学者の注意を最初に引きつけるのは、やはり赤さびた「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」であろう。鉄剣は展示室のほぼ中央に、ガラスケースに収められて展示されている。見学者のほとんどは、今ではあまりに有名になりすぎたこの国宝を己の眼で確かめたいため、県立さきたま資料館に足を運ぶ。

 実は、昭和43年(1968)に稲荷山古墳を発掘調査した時、刀身73.5cmのこの鉄剣は後円部頂上の礫槨(れきかく)の中から発見されていた。発見されて10年もすると掘り出された鉄剣の傷みが進んできたため、その保存処理を奈良県の元興寺文化財研究所に依頼していた。同研究所は鉄さびを落とす作業中に、刀身の表に57文字、裏に58文字、計115文字が金象嵌で刻まれていることが発見された。昭和53年(1978)9月のことである。100年に一度あるかないかのこの大発見は、日本中を揺るがした。

 金象嵌とは、まず地となる刀身に墨で文字を下書きし、次に書かれた文字をタガネで掘り、そこに径0.06mmほどの金線を打ち込み、さらに文字の上面を研いで平らに仕上げたものをいう。

 古墳時代の刀剣類に銘文が刻まれているものは、今までに全国で7件発見されている。有名なものに奈良県の石上(いそのかみ)神宮の七支刀や東大寺山古墳出土の太刀、熊本県の江田船山古墳出土の銀象嵌銘大刀、千葉県の稲荷台1号墳(5世紀中頃)出土の王賜銘鉄剣などがある。しかし、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣は、刻まれた文字数において、また銘文が語る内容において、他を圧倒する。刀身の表と裏には以下の金文字が象嵌されていた。

(表) 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比■其児多加利足尼其児名弓已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比。
(読み下し文)辛亥の年7月中、記す。ヲワケの臣(オミ)。上祖(かみつおや)、名はオホヒコ。其(そ)の児(こ)、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はタテヒ。

(裏) 其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
(読み下し文)其の児、名はカサヒヨ。其の児、名はヲワケの臣。世世、杖刀人の首(おびと)と為り、奉事(ほうじ)し来たり今に至る。ワカタケルの大王(おおきみ)の寺、斯鬼宮(しきのみや)に在る時、吾、天下を左治(さじ)し、此の百練の利刀(りとう)を作らしめ、吾(わ)が奉事の根原(こんげん)を記すなり。

 銘文の意味は、まず上祖・意富比■(おほひこ) から作刀依頼者の乎獲居臣(おわけのおみ)に至る8代の系譜を示し、杖刀人(じょうとうじん、身分の高い人物を護衛する武官)の長として代々仕えてきたことを述べ、続いて、獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)が斯鬼宮(しきのみや)で天下を治められたとき、乎獲居臣は獲加多支鹵大王を補佐してきたとし、このことを記念して辛亥(かのとい)年7月にこの練りに練った剣を作った”、という内容になっている。

 獲加多支鹵大王とは『日本書紀』に記す大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)大王、すなわち雄略天皇のことであり、辛亥年は伴出した副葬品の考古学的検討から西暦471年とされている。倭王・武(雄略天皇)が宋に使者を送り上表文を奉献した478年の7年前のことである。この銘文の解読は意外な波紋を呼んだ。熊本県江田船山古墳から出土した銀錯銘鉄剣の銘文に示された大王名も雄略天皇であることが判明した。これにより、5世紀後半には、大和政権の勢力が、西は肥後から東は武蔵まで及んでいたことが分かった。倭王・武の上表文の内容は、あながち誇張ではなかったのである。

 残念ながら、この鉄剣とともに稲荷山古墳に埋葬されたヲワケなる人物が何者かは特定されていない。3つの説が出されている。(1)武蔵の豪族で中央に出仕して、象嵌された鉄剣を持ち帰り、死後に鉄剣とともに葬られた人物とする説、(2)中央の豪族で武蔵に派遣されてきて、この地で死んでしまったので、鉄剣とともに葬られた人物とする説、(3)武蔵の豪族で中央のヲワケに仕え、功績を認められてヲワケの剣を貰い、武蔵に帰趨して死んだので鉄剣が副葬されたとする説である。

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北武蔵野の農具を陳列する民俗展示室


民俗展示室の内部
民俗展示室の内部
 昭和44年(1969)の設立以来、さきたま資料館は行田市周辺地域で営まれてきたさまざまな農業について、その特色を示す用具を民俗資料として収集してきた。その数は約3,000点に達する。そのうちの1,640点が昭和58年(1983)に「北武蔵野の農具」の名称で重要有形民俗文化財に指定された。ここで北武蔵とは、旧武蔵国の北部である埼玉県を指している。

 現在、民俗展示室では、米作りや麦作りを中心とした農具類を、一年の作業スケジュールにしたがって順に展示してある。室内を一周してみて、ほとんどの農具は筆者自身の子供の頃、農作業を手伝った時に手に触れたものだった。それだけに当時の父母や祖父母の懐かしい思い出が甦って仕方がなかった。


移築された茅葺き寄せ棟作りの稲作農家の建物


 さきたま資料館の前に広い空間があり、そこに二軒の民家が移築されて建っている。見学は自由である。旧遠藤家住宅は江戸時代末期の建築で、茅葺き寄せ棟作りの平屋である。幸手(さって)市の千塚から移築してきた。普通の農家より大きな造りの稲作農家で、広い土間と6間の部屋がある。面積は222.45平方米(67.41坪)。

 旧山崎家住宅は、明治初期に建てられた建築で、茅葺き寄せ棟造りだが、中二階建てである。資料館からほど近い行田市佐間から移築してきたもので、面積は143、18平方米(43.39坪)。田の字型の間取りを持つ稲作農家の典型的な建物だそうだ。

旧遠藤家の住宅 旧遠藤家の住宅
旧遠藤家の建物 旧山崎家の建物




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