埼玉古墳群(さきたまこふんぐん) 武蔵国造の地位に就いた笠原一族が1世紀にわたって営々と築いた奥津城?

さきたま風土記の丘
さきたま風土記の丘 − 丸墓山古墳の頂きから将軍山古墳方面を望む (2003/11/23 撮影)

メモ

【所在地】 埼玉県行田市埼玉(さきたま)
【アクセス】 JR高崎線「吹上」駅または秩父鉄道「行田市」駅よりバス、またはJR高崎線「北鴻巣」駅より徒歩5km。
【古墳】 丸墓山古墳稲荷山古墳二子山古墳将軍山古墳愛宕山古墳瓦塚古墳鉄砲山古墳奥の山古墳中の山古墳

さきたま風土記の丘


さきたま風土記の丘
さきたま風土記の丘

 埼玉の古代を知りたければ、県名発祥の地、行田市大字埼玉(さきたま)に行けばよい。ここには、国の史跡に指定された「埼玉(さきたま)古墳群」がある。8基の前方後円墳と1基の円墳が残っており、全国有数の大型古墳群である。この古墳群は、関東平野の中のなだらかな微高地の先端に位置し、周辺には利根川と荒川に挟まれた肥沃な水田地帯が広がる。埼玉県は、新たに発見された小型円墳跡も含めてこの地域約30万平米を古墳公園「さきたま風土記の丘」として整備し管理している。

 古墳時代、このあたりは、すぐ東が東京湾につながる埼玉沼という大きな湖に突き出た半島だった。湖に面した半島の先端は、北武蔵に盤踞した氏族にとっては格好の奥津城だったのだろう。5世紀の終わりから7世紀の始めにかけて、族長クラスの大型古墳がこの地で次々と築かれた。現在9基の大型古墳が東西600m、南北900mの狭い範囲に、旧状をよくとどめながら隣接して群れをなしている。

 この古墳群のうち、丸墓山(まるはかやま)古墳は日本最大の円墳であり、二子山(ふたごやま)古墳は武蔵野国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部)で最大規模を誇る前方後円墳である。さらに、稲荷山(いなりやま)古墳は、昭和43年(1968)の発掘調査によって、国宝の「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」を出土したことで全国的に知られている。丸墓山古墳以外はすべて前方後円墳であり、不思議なことに、いずれも後円部をほぼ北に向け築かれている。

 その他にも、埼玉古墳群には幾つかの謎というか、特徴がある。5世紀末から6世紀末の100年間にわたって、狭い地域に大型古墳が周濠を接するような近さで、一貫した計画性をもって次々と築造されたのはなぜか。大和地方の天皇陵クラスの大古墳にしか見られない二重周濠が、一地方の古墳にすぎない前方後円墳のほとんどに巡らされているのはなぜか、中堤(ちゅうてい)に造出し(つくりだし)を持つ古墳が多いのはなぜか。etc.etc.

 「さきたま風土記の丘」には、昭和44年(1969)に設立された「埼玉県立さきたま資料館」がある。埼玉古墳群からの出土品や北武蔵の民俗資料を展示することを目的として、建てられた資料館である。資料館の考古展示室には、古墳から出土した埴輪や金錯銘鉄剣が展示してある。古墳見物の前に「県立さきたま資料館」に寄って古墳の配置や概要をあらかじめ頭に入れておくことを勧める。


県立さきたま資料館


資料館
県立さきたま資料館

 県立埼玉資料館は、埼玉古墳群から発掘された遺物と、行田市周辺地域を中心に調査・収集された民俗資料を展示する目的で、昭和44年(1969)に設立された。

 当資料館の概要は別ファイル埼玉県立さきたま資料館で説明する。




丸墓山古墳 我が国で最大の円墳。忍城水攻めの際に石田三成が陣取った場所としても有名


丸墓山古墳
丸墓山古墳−1

【墳形】:円墳
【規模】:直径105m、高さ18.9m
【築造】:6世紀前半


 駐車場から北に続く道を歩いて行くと、まもなく桜の木の梢の間から丸い形をした古墳が見えてくる。埼玉古墳群の北西部に築かれた丸墓山(まるはかやま)古墳である。丸墓山古墳は埼玉古墳群の中で唯一の円墳で、直径は105m、高さは18.9mとのこと。墳丘土量および高さにおいて、円墳としては我が国最大の規模を誇っているという。これだけ大きい古墳なのに、前方後円墳でないのは埼玉古墳群の謎の一つとされている。

石田堤
かっての石田堤
 駐車場から丸墓山古墳に向かう道は、古墳の手前で桜並木となっている。この並木道は、天正18年(1590)に石田三成が忍城(おしじょう)を水攻めにしたとき築いた堤防の一部で、現在は「石田堤」と呼ばれている。古墳時代の史跡を見学に来て、いきなり戦国絵巻の一部に触れようとは思いの外だった。石田三成は城を見下ろすもっとも都合のよい場所として、丸墓山古墳の頂上を選び、そこに陣を張って忍城を攻めたという。(石田三成の水攻めに耐えた忍城を参照のこと)。

 丸墓山古墳には、南側と北側に墳頂に登る階段が築かれている。かなり勾配がきつい階段だが、登り切ると頂きの広場からの眺望はすばらしい。桜の巨木が5本墳頂の周りに植えてある。春の桜の頃は、近隣からさぞかし大勢の花見客がここを訪れるのであろう。

丸墓山古墳
丸墓山古墳−2
 現在は東側半分に残っているだけだが、周濠がこの古墳に巡らしてあった。周濠の調査で、墳丘の裾部から葺石や円筒埴輪、形象埴輪の一部が出土した。埴輪の年代から、この古墳の築造時期は6世紀前半と推定されている。おそらく、稲荷山古墳が築かれた後に、二子山古墳と同時期か若干早い時期に造られたのであろう。



稲荷山古墳 「金錯銘鉄剣」の出土で全国的に知られている古墳


稲荷山古墳
稲荷山古墳

【墳形】:前方後円墳
【規模】:全長120m。後円部の直径62m、高さ11.7m。削除された前方部の幅74m、高さ10.7m。
【築造】:5世紀末頃


 稲荷山(いなりやま)古墳は、埼玉古墳群の北東の隅に位置する前方後円墳である。古墳の上に稲荷神社があったことから「稲荷山」という名がついた。以前は、中規模の円墳に見えたらしい。昭和12年(1937)に、前方部が周辺の開墾によって削り取られてしまったためだ。開墾前には、後円部の高さに匹敵する前方部があった。現在は、史跡保全整備事業の一環として復元工事が行われ、ほぼ元の状態に戻されている。

 発掘調査によって、古墳全体が長方形の二重の周濠に囲まれいたこと、墳丘の西側および中堤の西側に、「造出し(つくりだし)」と呼ばれる祭祀のための方形区画があったことが判明した。墳丘の頂き、周囲、および中堤の造出し周辺から、人や人物をかたどった形象埴輪や土管のような形の円筒埴輪が大量に見つかった。さらに、土師器(はじき)の壺や坏(つき)、須恵器の高坏や注ぎ口のある壺なども、造出し周辺から出土している。造出しで葬送の儀が執り行われ、葬儀の参列者が飲食しながら死者を偲んでいた様子が眼に浮かぶ。

礫槨(複製)
墳頂の築かれた礫槨(複製)
 昭和43年(1968)に行われた発掘調査で、後円部の頂上から2つの埋葬施設が発見された。1つは、素堀りの竪穴で底に粘土を敷いて棺を置いた粘土槨(ねんどかく)だった。もう1つは、船の形に掘った竪穴に河原石を貼り付けその底に棺を置いた礫槨(れきかく)である。粘土槨はすでに盗掘されていて、わずかばかりの遺物が残っているにすぎなかった。しかし、礫槨は盗掘を免れたため、埋葬当時の副葬品の並べ方がわかるほどよく残っていた。埋葬設備の実物は埋め戻して地中に保存されているが、後円部の頂きに登ると、そのレプリカがL字型に配置してある。

 後に日本中を驚かす世紀の大発見となった「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」は、礫槨の副葬品の一つとして、この時の発掘調査で発見された。しかし、その刀身の両面に115文字の金錯銘が施されているのが分かるのは、出土から10年後のことである(金錯銘鉄剣については、考古展示室の中央に展示された「金錯銘鉄剣」を参照のこと)。

粘土槨(複製)
墳頂の築かれた粘土槨(複製)
 稲荷山古墳からは、金錯銘鉄剣以外にもさまざまな遺物が出土している。主なものに、画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)、金銅製の帯金具(バックル)、ヒスイの勾玉(まがたま)、イヤリングとして使用された銀環、轡(くつわ)や杏葉(ぎょうよう)などの馬具、挂甲(けいこう)や矛、鏃(やじり)などの武具、鉄斧などの工具がある。馬具や武具が出土していることから、被葬者が武人であったことがわかる。鉄剣の銘が語るように、中央の大和朝廷に出仕して、雄略天皇や皇族を護衛する杖刀人(じょうとうじん、ボディガード)として仕えた人物だったのだろう。


二子山古墳 埼玉古墳群の中で最大規模、武蔵全域でも最大規模の古墳


二子山古墳
二子山古墳

【墳形】:前方後円墳
【規模】:全長138m。後円部の直径70m、高さ13m。前方部の幅90m、高さ14.9m。
【築造】:6世紀初頭前後


 二子山(ふたごやま)古墳は、稲荷山古墳と並ぶ埼玉古墳群の主墳である。前方後円墳であるが、2つの山に見えることからこの名がついた。古墳群の中では、稲荷山古墳に次いで築造されたと推測されている。しかし、全長は138mであり、稲荷山古墳より大きい。武蔵野国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部)で最大の前方後円墳だったとされている。

 風土記の丘整備のために昭和51年(1976)から数回にわたって調査が行われた。調査は主として周濠の復元を目的とするもので、墳丘の発掘調査は行われていない。このため、埋葬施設などの詳しいことは分からない。

 周濠の調査の結果、前方後円墳でありながら、ややゆがんだ長方形の二重の周濠を巡らし、後円部西側の中堤には、外堤に向かって突き出した台形の造出しがあったことが判明した。この造出しは祭祀用の場所であり、かっては大量の埴輪が樹立されていたと思われる。直径50cmを超える大型の円筒埴輪がここから出土している。

二子山古墳の水堀
二子山古墳の水堀
 かっての中堤は、現在は遊歩道として整備されている。遊歩道を巡りながら眺める墳丘は、刈り取られその場に放置された雑草が墳丘全体を黄土色に覆っていた。遠方から眺めれば、冬の二子山古墳はおそらく砂丘のように見えるはずである。内濠は水堀となっていて、数羽の渡り鳥が水面に浮いていた。外濠は花菖蒲が植えられていて、6月中頃は見学者の目を楽しませてくれるとのことだ。


将軍山古墳



将軍山古墳
将軍山古墳

【墳形】:前方後円墳
【規模】:全長90m。後円部の直径39m、高さ(復元)8.45m。前方部の幅推定68m、高さ9.4m。
【築造】:6世紀後半

 将軍山(しょうぐんやま)古墳は、全長90mの前方後円墳である。稲荷山古墳の南方200mのところに築かれている。将軍を埋葬したとの伝承から将軍山古墳と呼ばれているが、この古墳も悲しい運命をたどった墳墓の一つだ。明治27年(1894)、地元の名士が自宅の庭石を得るために、この古墳からのぞいていた石に目をつけた。この石を取り除くと横穴式石室が現れ、銅碗、飾り大刀、金銅や青銅の馬具、武器類など多くの優れた遺物が出土した。そのとき発見された遺物は現在、東京大学や東京国立博物館をはじめ、さきたま資料館などに保管されている。しかし、金の勾玉や金の平玉など、現在ではその所在が分からないものもある。

将軍山古墳展示館
将軍山古墳展示館の入り口
 その後、墳丘の約半分を削り取られてしまい、前方部にあたる部分だけが、比較的原形をとどめているにすぎない状態が長く続いた。この古墳の復元整備は長年の懸案だった。平成3年(1991)から大がかりな発掘調査げ行われ、調査終了後の平成9年(1997)に二段築成の墳丘が復元整備された。1400年前の姿に甦った墳丘の周りには、二重の濠がめぐらされ、稲荷山古墳と同じように中堤に造出しが付随している。復元整備にあたって、後円部の墳丘欠損部に展示館を建設し、遺体が安置されていた横穴式石室の実物遺稿を見学できるようにした。この将軍山古墳展示館は、さきたま資料館の分館になっている。

 将軍山古墳展示館の玄関を入った一階正面に、墳丘の断面の土層をはぎ取った大きなパネルが立ちはだかっている。褐色の粘土と暗褐色および橙色の関東ローム層の土を交互に突き固める版築(はんちく)という工法で、墳丘が作られていることがわかる。その奥には、この古墳から出土の馬具を付けた馬に乗る武人の像が置かれている。被葬者の”将軍”の生前を彷彿とされる騎馬武者である。

将軍山古墳出土の馬胄
将軍山古墳出土の馬胄
 展示館の2階は、横穴式石室と埋葬時の様子を再現・展示している。羨道や玄室の壁には、表面に多数の穴があいた房州石が使われている。この石は千葉県富津市の鋸山周辺の海岸にみられ、凝灰質の砂岩に貝が住み込んで穴をあけたものである。玄室に置かれた副葬品の中に馬胄(ばちゅう)や蛇行状鉄器(だこうじょうてっき)がある。日本では、馬胄の出土例は2つしかない。この将軍山古墳と和歌山市の大谷古墳だけである。蛇行状鉄器は、馬の鞍に取り付けたU字型の金具に差し込む旗ざおのことだが、やはり出土例が少なく、他に7例あるだけだ。

 この古墳の出土品には、馬具や環頭大刀、馬胄など朝鮮半島とつながりが深いものが多く含まれている。高句麗古墳の壁画には、胄(かぶと)と甲(よろい)を付けた馬にまたがり、旗ざお金具に旗をさして疾走する武人が描かれている。この古墳の被葬者も、生前は同じような馬に乗り甲冑をまとって戦場に出向いたのだろうか。そういえば、一階に置かれた騎馬武者の像は、関東武士のハシリのような風貌をしている。

 それにしても、立派な副葬品に比べて、棺(ひつぎ)が木棺だったことはいささか奇異である。大和地方の古墳を見慣れた筆者は、この時代の埋葬設備は石棺が当たり前だろうと思いこんでいた。稲荷山古墳の礫槨に納められていたのも木の棺とのことだ。中央の文化に憧れながら、自分たちの文化を受けついて行く風習が、この時代の関東にあったのだろうか。


愛宕山古墳


愛宕山古墳
愛宕山古墳

【墳形】 前方後円墳
【規模】 全長53m。後円部の直径30m、高さ3.4m。前方部の幅30m、高さ3.3m。
【築造】 6世紀前半


 かって墳丘の上に愛宕(あたご)神社が祀られていたことから、愛宕山古墳と呼ばれる墳丘は、駐車場の脇にある。全長53mの前方後円墳で、埼玉古墳群の中では一番規模が小さい。しかし、他の古墳と同様に、二重の濠を周囲に巡らしていた。

 この古墳からは、高さが40cm前後と小さい円筒埴輪が出土している。その他に、人や大刀、盾などの形象埴輪の破片も出土している。これらの出土品から、二子山古墳に近い時期に築造されたと推測されている。

瓦塚古墳


瓦塚古墳
瓦塚古墳

【墳形】 前方後円墳
【規模】 全長73m。後円部の直径36.5m、高さ5.1m。前方部の幅47m、高さ4.9m。
【築造】 6世紀前半


 埼玉古墳群のうち、上に紹介した5基の古墳はいずれも県道77号線の北側に位置している。しかし、残りの4基は県道の南に築かれており、いずれも後円部を北に向けている。北側の古墳公園は大きな広場があって家族連れで賑わっているが、南側の古墳公園は、対照的に人影もまばらでなんとなく寂れた感じを抱かせる。

 資料館に一番近いところに墳墓が、瓦塚(かわらづか)古墳である。移築民家と県道に挟まれた場所に築かれている。明治初期、この古墳のそばに瓦職人が住んでいたので、瓦塚という名が付けられたという。他の古墳と同様に、二重の長方形の濠が築かれていたが、現在は砂利が敷かれている。前方部の西側くびれ部分には、造出しがあり、その周辺から大量の須恵器が出土した。

 瓦塚古墳の墳丘や中堤には多くの埴輪が並べられていた。特に、西側の中堤の上には多くの形象埴輪があったという。琴を弾く男、巫女、武人、家、盾など、その種類は多い。


鉄砲山古墳


鉄砲山古墳
鉄砲山古墳

【墳形】 前方後円墳
【規模】 全長109m。後円部の直径55m、高さ9.0m。前方部の幅69m、高さ10.1m。
【築造】 6世紀後半

 埼玉古墳群の中で3番目に大きい前方後円墳である。江戸時代に、忍(おし)藩の砲術練習場がこの古墳の周辺にあったため、鉄砲山という名がついたとされている。二重の周濠が長方形に巡らされていたことは確認されているが、造出しがあったかどうかは不明である。周濠から円筒埴輪や須恵器の破片が出土しており、これらの遺物から6世紀後半ごろの築造であると推定されている。

奥の山古墳


奥の山古墳
奥の山古墳

【墳形】 前方後円墳
【規模】 全長70m。後円部の直径43m、高さ6.8m。前方部の幅47m、高さ7.4m。
【築造】 6世紀中頃


 行田市渡柳(わたりやなぎ)地区には「渡柳三大墳」と呼ばれる3つの古墳があり、この古墳は東から見て一番奥に位置するため、奥の山古墳と呼ばれている。3つの古墳のうち、一番東側にあった戸場口山(とばくちやま)古墳は、すでに宅地化されてしまって、現在は墳丘は残っていない。このため、「渡柳三大墳」は奥の山古墳と次に紹介する中ノ山古墳だけとなり、埼玉古墳群に組み入れられている。

 奥の山古墳は、古墳群の前方後円墳の中で二重の長方形周濠をもたない唯一の墳墓である。その代わり、一重の盾型周濠が巡らしてあった。現在は周濠に水が蓄えられている。この古墳から出土した円筒埴輪によって、築造年代が6世紀中頃と推定されている。

中の山古墳


中の山古墳
中の山古墳

【墳形】 前方後円墳
【規模】 全長79m。後円部の直径42m、高さ5.1m。前方部の幅44m、高さ5.4m。
【築造】 6世紀末〜7世紀初め

 渡柳三大墳の真ん中にあったこの古墳は、全長79mの前方後円墳で、二重の周濠が巡らされていたことが確認されている。かって石棺が出土したことがあるため「唐櫃山(かろうとやま)古墳」と呼ばれたこともあるという。

 この古墳で特記すべきは、須恵質埴輪壺(すえしつはにわつぼ)と呼ばれる出土品であろう。堅く灰色に焼いた、口がラッパのように開いた、須恵器の壺のような形をしながら、それでいて底に大きな穴があいている不思議な遺物である。埴輪と須恵器のそれぞれの製作技法が混在した特異な形態製品で、墳丘くびれ部の濠底から大量に出土した。埴輪の代わりに墳丘に並べられたと推定されている。

須恵質埴輪壺
須恵質埴輪壺
 須恵質埴輪壺に似た遺物は、北九州のいくつかの古墳で出土しているが、関東の古墳では他に例がなかった。だが、最近になって、30kmほど離れた寄居町末野遺跡で、須恵質埴輪壺を焼いたと思われる須恵器の窯跡が発見されている。この窯で焼いた須恵器の製造年代は6世紀末から7世紀初め頃とされている。このため、中の山古墳の築造時期も紀元600年前後と推定されている。


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