![]() | 行田市郷土博物館へのアクセス [鉄道] JR高崎線「吹上駅」下車、前谷経由行田車庫行バスで「忍城」バス停下車、徒歩すぐ。 または、秩父鉄道線「行田市駅」下車、徒歩15分。 [自動車] 国道125号を行田市内「市役所入口」交差点から西に300m。 |
| 復元された忍城 (03/12/02 撮影) |
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忍城の城主となった成田氏は、それから親泰・長泰・氏長の三代にわたって戦国時代100年を巧みに生き抜いた。天文21年(1552)、小田原の北条氏康は、関東管領・上杉憲政を越後に追いやり北関東進出すると、翌年上杉家の御家人だった成田長泰の忍城を攻めた。忍城は陥ちなかったが、長泰は降伏して北条方についた。 永禄2年(1559)、長尾景虎(上杉謙信)が関東に出陣してきた。北条方についていた成田長泰は抵抗の構えを見せたが、謙信の軍が城下に無差別に放火したのを見て降伏し、謙信に帰順した。そして、永禄4年(1561)の上杉謙信の小田原城攻めでは、謙信の軍に加わり先鋒として小田原城を攻めた。 上杉謙信の小田原城攻めは結局失敗し、謙信は軍を引いた。帰途、鶴岡八幡宮での関東管領就任式で、成田長泰は謙信に無礼を咎められ、忍城に退陣した。その後はふたたび北条氏に帰順し、天正2年(1574)に謙信に攻められたときは、忍城を持ちこたえて堅城ぶりを示した。 天正18年(1590)年、豊臣秀吉の関東攻略の際には、成田氏長は小田原城に籠城した。石田三成の軍勢は館林城を陥とし、その余勢で一気に忍城を攻めてきた。だが、忍城の士卒・兵・農民ら三千は、城内に立て籠ってよく防戦した。このとき三成は水攻めの策をとったが、小田原本城落城後も忍城は健在だった。小田原で秀吉に帰順した城主・成田氏長の勧告により、一ヶ月以上の籠城のあと、城兵たちはようやく開城したという。 家康の関東入封後は、松平家忠が忍城に入城し、文禄元年(1592)には家康の四男・松平忠吉が十万石で入城し、慶長5年(1600)に尾張清洲城に転封となった。その後は酒井讃岐守忠勝、松平伊豆守信綱、阿部豊後守忠秋らが入城、元禄14(1701)年、阿部正武の時、幕府は忍城の三重櫓・二重櫓および帯郭の新たな造営を許可した。文政6年(1823)には松平下総守忠堯が入城したが、四代の後に廃藩置県を迎え廃城となった。 明治6年、忍城は破壊され、主な建物は競売に付されて、当時の面影を残すのは城壁や土塁、忍の鐘などだけとなった。現在、本丸跡は小中学校、市役所、行田市郷土博物館となっており、阿部氏が築いた三階櫓が復元されている。 |
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そこで、石田三成が取った戦法が水攻めである。水攻めは三成が仕える秀吉の得意とする戦法であった。彼は、近在から十万の人夫を集め、丸墓山を起点として、元荒川と利根川を結ぶ全長28kmの大がかりな堤防を築かせた。通説では、わずか5日で堤を完成させたという。この堤防が、後世、石田堤と呼ばれるようになった堤である。 忍城は浮城ともいう。水害の際でも水を被らないことから、その名がついたとされている。この城を水没させるのは、もともと困難だったのである。運も幸いした。この年は空梅雨だった。わずかに堤防内に水も溜まって城の周囲が湿地のようになったものの、忍城の高さまでは届かなかった。また、築堤工事に籠城兵が紛れ込んで堤に細工したため、堤が決壊して、逆に三成の将兵270余名が溺死したとも伝えられている。 石田三成の応援に浅野長政も駆けつけ、忍城を攻撃した。敵の首30を取るという武功を挙げたが、城は落ちなかった。結局、小田原城が開城した後も、忍城は支城としてはただ一つ落城せずに残った。この城が開城したのは、それから一ヶ月以上の籠城のあとである。城主の成田氏長が秀吉軍に内通した功と、忍城内の兵と町民を全員助命することを条件に開城交渉を秀吉に持ちかけ、秀吉の了解が得られたことによる、とされている。 |
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それに加えて、水攻めは莫大な費用と時間がかかる。また、城だけでなく近郷の田畑までを水没させて荒れ地に変えてしまい、周囲に及ぼす影響はきわめて大きい。当時一介の奉行に過ぎない三成の判断で成し得ることでは無かった。それにもかかわらず、石田三成は水攻めを敢行した。何故か。水攻めに固執していたのは、石田三成ではなくて豊臣秀吉だったからである。 秀吉から三成に送った書状から、秀吉の固執ぶりが分かる。水攻めが始まった6月10日から2日後に、秀吉は水攻めの方法や戦後処理などについて、三成に細かく指示している。さらに、6月20日には、三成に水攻めの絵図を提出させ、築堤が進んだら使者をだして自分の承認を受けるようにという内容の書状を出している。 秀吉にとって、忍城の水攻めは、自分の富と力を関東の新参諸将に見せつける絶好の方法だった。ただ城を落とすことだけでなく、水攻めという秀吉の富をもってしか成しえない戦法を、新参諸将に見せつけることがその目的であった。書状の中で、秀吉は諸将をつれて水攻め見物に出かけると高らかに宣言している。 三成は忍城が水攻め困難な城であることを理解していた。だが、彼は水攻めに固執する秀吉の命に応えなければならなかった。現場を見ない上司の無理な命令に、必死で応えようとする三成の姿は、そのまま現代の中間管理職の姿に重なる。 |