石田三成の水攻めに耐えた忍城(おしじょう)  湿地帯の地形を巧みに利用して築かれた名城

復元された忍城の三階櫓行田市郷土博物館へのアクセス

[鉄道] JR高崎線「吹上駅」下車、前谷経由行田車庫行バスで「忍城」バス停下車、徒歩すぐ。
または、秩父鉄道線「行田市駅」下車、徒歩15分。

[自動車] 国道125号を行田市内「市役所入口」交差点から西に300m。
復元された忍城 (03/12/02 撮影)

かっての忍城本丸跡に開館した行田市郷土博物館


 12月2日、忍城跡を見るために行田市まで出かけた。”台風一過”とは良く言ったもので、季節はずれの台風が過ぎて雲一つない晴天に恵まれた一日だった。東北自動車道の加須ICから国道125号線に出ると、一路西に向かって車を走らせた。冬型の気圧配置に戻ったため北風が強い。だが、車内は陽光を一杯に受けて暑いくらいだ。田園地帯を走りながら視線を西の方角に向けると、秩父連山が申し訳程度に低く連なって見える。その上に雪化粧した富士山が乗っかるように聳えていた。関東平野の奥からも、意外と近くに見えるので驚いた。

行田市郷土博物館
行田市郷土博物館
 加須(かぞ)市を抜け、行田市の市街地に入ると、まもなく行田市役所があり、その先に忍城の看板があった。国道沿いに行田市郷土博物館が建っている。かっての忍城本丸跡に昭和63年(1988)2月に開館した建物である。忍城にあった櫓(やぐら)をモデルにして復元した三階櫓は博物館と渡り廊下でつながっている。

 博物館の駐車場に車を止めると、受付で「見学のしおり」を貰って、館内の展示室を見学した。行田市は、忍城の城下町としてだけでなく、明治以降は足袋の町として発展してきた。時代を遡れば、埼玉古墳群に代表されるように、古代の歴史と文化に特色を持った地域である。展示室では「中世の行田」、「近世の行田」、「足袋と行田」「古代の行田」の4つのブースに分けて、行田の歴史遺品を陳列してある。

 渡り廊下を通って三階櫓へ行くと、二階は「忍城と城下町」をテーマに江戸時代の庶民の生活を絵を中心に展示してある。三階は「近・現代の行田」というテーマに明治から現在までを写真を中心に展示してある。最上階は展望台で、ここから東西南北いずれの方角も眺められる。四方に広がる関東平野は、実に広大である。足下に現在の行田市街を見下ろすことができるが、それほど目を引く高層建築は見あたらない。この町が水田地帯の真ん中に生まれ、そして発展してきたことがよく分かる。



忍城の歴史を振り返る


 戦国時代、関東七名城の一つに数えられた忍城は、およそ510年前の延徳年間(1489〜92)に築かれたとされている。延徳元年(1489)、関東管領・山内上杉家の御家人だった成田親泰(なりたちかやす)は、山内・扇谷両上杉家の争いに乗じて扇谷上杉方の忍大丞(おしだいじょう)の館を襲って一族を滅ぼすと、忍周辺を支配した。親泰の父の成田顕泰(なりたあきやす)は、翌延徳2年(1490)年から2年がかりで難攻不落の城をこの地に築いたとされている。別の伝承もある。それによれば、この地方を領有していた武蔵七党の一つ児玉氏を、文明年間(1469〜86)に成田親泰が滅ぼし、文明11年(1479)頃に成田顕泰が忍城を築城したと伝える。

三階櫓
忍城の三の丸を模した三階櫓
 忍城は戦国期の典型的な水城である。近くを流れる忍川や自然の沼地を利用して低湿地帯に築かれた。このため、別名を亀城または浮城とも呼ばれた。築城にあたっては、水路を整備し新田開発もあわせて行なった。その結果として、低湿地帯を水田に変えることに成功し、行田(ぎょうだ)という地名が生まれたという。そして、成田氏はそれまで住んでいた成田館(埼玉県熊谷市)からこの地に移り住んだ。

 忍城の城主となった成田氏は、それから親泰・長泰・氏長の三代にわたって戦国時代100年を巧みに生き抜いた。天文21年(1552)、小田原の北条氏康は、関東管領・上杉憲政を越後に追いやり北関東進出すると、翌年上杉家の御家人だった成田長泰の忍城を攻めた。忍城は陥ちなかったが、長泰は降伏して北条方についた。

 永禄2年(1559)、長尾景虎(上杉謙信)が関東に出陣してきた。北条方についていた成田長泰は抵抗の構えを見せたが、謙信の軍が城下に無差別に放火したのを見て降伏し、謙信に帰順した。そして、永禄4年(1561)の上杉謙信の小田原城攻めでは、謙信の軍に加わり先鋒として小田原城を攻めた。

 上杉謙信の小田原城攻めは結局失敗し、謙信は軍を引いた。帰途、鶴岡八幡宮での関東管領就任式で、成田長泰は謙信に無礼を咎められ、忍城に退陣した。その後はふたたび北条氏に帰順し、天正2年(1574)に謙信に攻められたときは、忍城を持ちこたえて堅城ぶりを示した。

 天正18年(1590)年、豊臣秀吉の関東攻略の際には、成田氏長は小田原城に籠城した。石田三成の軍勢は館林城を陥とし、その余勢で一気に忍城を攻めてきた。だが、忍城の士卒・兵・農民ら三千は、城内に立て籠ってよく防戦した。このとき三成は水攻めの策をとったが、小田原本城落城後も忍城は健在だった。小田原で秀吉に帰順した城主・成田氏長の勧告により、一ヶ月以上の籠城のあと、城兵たちはようやく開城したという。

 家康の関東入封後は、松平家忠が忍城に入城し、文禄元年(1592)には家康の四男・松平忠吉が十万石で入城し、慶長5年(1600)に尾張清洲城に転封となった。その後は酒井讃岐守忠勝、松平伊豆守信綱、阿部豊後守忠秋らが入城、元禄14(1701)年、阿部正武の時、幕府は忍城の三重櫓・二重櫓および帯郭の新たな造営を許可した。文政6年(1823)には松平下総守忠堯が入城したが、四代の後に廃藩置県を迎え廃城となった。 

 明治6年、忍城は破壊され、主な建物は競売に付されて、当時の面影を残すのは城壁や土塁、忍の鐘などだけとなった。現在、本丸跡は小中学校、市役所、行田市郷土博物館となっており、阿部氏が築いた三階櫓が復元されている。



石田三成の忍城攻め


 天正18年(1590)のことである。天下統一を目指す豊臣秀吉は、大軍を率いて北条氏の小田原城を包囲した。それと同時に、別働隊を用いて、北条方の関東諸城を攻略させた。その一隊の大将に任じられたのは、若干31歳の石田三成がである。三成が率いたのは、東国の大名の軍勢23,000余の大軍だった。当時の三成の身分や他の別働隊の将の顔ぶれから見ると、これは大抜擢である。

大手門
大手門
 北条氏に加勢した忍城の城主・成田氏長は小田原城に入り、忍城は残った士卒・兵・農民ら三千が立て籠った。石田三成は、館林城を陥とした余勢で一気に力攻めを行った。天正18年6月のことである。三成は、忍城を望むことができる丸墓山の頂きに本陣を構えると、果敢に攻めさせた。しかし、忍城は関東7名城の一つに数えられるほ堅固な城で、周囲は沼地・低湿地で囲まれ、大軍を持ってしても容易に近づくことすらできなかった。城攻めは難渋を極めた。

 そこで、石田三成が取った戦法が水攻めである。水攻めは三成が仕える秀吉の得意とする戦法であった。彼は、近在から十万の人夫を集め、丸墓山を起点として、元荒川と利根川を結ぶ全長28kmの大がかりな堤防を築かせた。通説では、わずか5日で堤を完成させたという。この堤防が、後世、石田堤と呼ばれるようになった堤である。

 忍城は浮城ともいう。水害の際でも水を被らないことから、その名がついたとされている。この城を水没させるのは、もともと困難だったのである。運も幸いした。この年は空梅雨だった。わずかに堤防内に水も溜まって城の周囲が湿地のようになったものの、忍城の高さまでは届かなかった。また、築堤工事に籠城兵が紛れ込んで堤に細工したため、堤が決壊して、逆に三成の将兵270余名が溺死したとも伝えられている。

 石田三成の応援に浅野長政も駆けつけ、忍城を攻撃した。敵の首30を取るという武功を挙げたが、城は落ちなかった。結局、小田原城が開城した後も、忍城は支城としてはただ一つ落城せずに残った。この城が開城したのは、それから一ヶ月以上の籠城のあとである。城主の成田氏長が秀吉軍に内通した功と、忍城内の兵と町民を全員助命することを条件に開城交渉を秀吉に持ちかけ、秀吉の了解が得られたことによる、とされている。



忍城水攻めは石田三成の発案ではなかった?


 通説では、石田三成が丸墓山に登って周囲の地形を俯瞰し、秀吉の備中高松城攻めに習って、この忍城を水攻めにすることを思いついたという。そして、近在から十万の人夫を集め、上記のように、元荒川と利根川を結ぶ全長28kmの大がかりな堤防を築かせたとされている。だが、忍城水攻めは石田三成の発案ではなかったとする説がある。

鐘楼
鐘楼
 忍城の周囲は全くの平坦地で、水攻めには不向きな地形だった。周囲には丘陵など自然の堤防にあたるものはなにもない。それに加えて、忍城の本丸付近は僅かに高地になっていて、水害で周囲が水浸しになっても、浮城の名のごとく水没させるのは困難である。丸墓山に登り忍城を望んだ時点で、三成でなくても誰しも水攻めは無理であることを悟ることができたはずだ。

 それに加えて、水攻めは莫大な費用と時間がかかる。また、城だけでなく近郷の田畑までを水没させて荒れ地に変えてしまい、周囲に及ぼす影響はきわめて大きい。当時一介の奉行に過ぎない三成の判断で成し得ることでは無かった。それにもかかわらず、石田三成は水攻めを敢行した。何故か。水攻めに固執していたのは、石田三成ではなくて豊臣秀吉だったからである。

 秀吉から三成に送った書状から、秀吉の固執ぶりが分かる。水攻めが始まった6月10日から2日後に、秀吉は水攻めの方法や戦後処理などについて、三成に細かく指示している。さらに、6月20日には、三成に水攻めの絵図を提出させ、築堤が進んだら使者をだして自分の承認を受けるようにという内容の書状を出している。

 秀吉にとって、忍城の水攻めは、自分の富と力を関東の新参諸将に見せつける絶好の方法だった。ただ城を落とすことだけでなく、水攻めという秀吉の富をもってしか成しえない戦法を、新参諸将に見せつけることがその目的であった。書状の中で、秀吉は諸将をつれて水攻め見物に出かけると高らかに宣言している。

 三成は忍城が水攻め困難な城であることを理解していた。だが、彼は水攻めに固執する秀吉の命に応えなければならなかった。現場を見ない上司の無理な命令に、必死で応えようとする三成の姿は、そのまま現代の中間管理職の姿に重なる。



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